[ hider/representer ]
[ hider/representer ]
001a
002 | お年寄りはすべてを語らない。 生きる不安。 死ぬ不安。 なにも予定がない毎日に頭に浮かぶことはそのことばかりです。
お年寄りはふだん、そんなことは口にも素振りにも出さないかもしれません。でも、病気をしたときや、ひとりの夜に声をかけると、ぽろりともらすのです。 「生きるのはもう十分。もういい」 と。 それを否定するのではなくて理解すること。 言葉にならない言葉を共有しようと努力すること。 それが目の前にいるお年寄りがその日の「生きる力」になると考えています。
お年寄りが言葉にしない部分。 言葉にしたくても言葉にできない部分。 高齢者本人が本当に心から求めているのはそこの部分にあるはず。 そこを見つめるのが教室の目標です。
|
003 | 24時間365日、痛くて苦しいことを忘れない。 ただのお年寄りなんて一人もいません。 かならず何か抱えていらっしゃいます。
いつも痛みがある。 不自由な身体が苦しい。 弱った身体での生活が不安。 悲しみを抱えたまま終わっていくことが悲しい。 その重なりの重たさを常に意識しながら高齢者に接してください。
「痛みがない」ことにされる。 「たいしたことではない」とされる。 そんな苦痛がもっともつらい苦痛です。
もしも自分が人生最後の日々に「痛み」を持って暮らすとしたら。 もしも自分が人生最後の日々に「障害の悲しさ」を持って暮らすとしたら。 自分はそのとき何が必要かをぜひ想像してください。
|
004 | 単なるお手伝い気分でいるな。 どうして高齢者ケアや介護が必要なのか。 年に一度くらい、じっくりと一日かけて考えてみてください。
高齢者ケアは暮らしのお手伝いをすることが全般です。 それが目的そのもののようにもなります。 しかし、高齢者ケアのそもそもの原点は「弱った体で人生を終えようとしている人の心を支えること」です。 人生を終えようとしているのに食事もトイレもうまくできない。 ただ穏やかに暮らしたいだけなのに身体がいうことをきいてくれない。 それがつらい。 だから手伝うんですよね。 ただ単にそれが「できないこと」だから手伝うのではないんです。 「できないことが切ないこと」だから手伝うんです。
支えるのは暮らしじゃない。 そもそもは心のほう。
高齢者ケアという役割が世の中に生まれたのは、人生の最後を切なくなく過ごさせてはいけないという人間同士の責任のためです。 切なくないという言葉は「尊厳」という言葉にもつながります。 高齢者ケアは「尊厳へのケア」そのものであることを忘れないでください。 生活のケアや介護業務はゴールではありません。 尊厳をケアする手段です。 高齢者ケアは単なるお手伝いではないのです。 やって終了、ではないのです。
|
005 | 踏み台になろう。 高齢者ケアは踏み台です。 高齢期を生きる人のための踏み台になることです。
踏み台とはしっかりとした足場です。これまで手の届かなかったところに安定して手を伸ばすことができるための生きていく素地のようなものです。 たとえば、学校の先生は1+1を教えてくれます。 そうやって生きていくための素地を子どもに与えてくれます。単なる解き方ではなく、世の中で生きていくための踏み台のひとつです。 高齢者ケアはお年寄りの代わりに1+1を解きます。 そうやって自分でやりたいのにできなくなってしまった部分を補って、お年寄りが生きていくための素地をつくっています。今までできていたことをこれからも安定してやり続けるための踏み台なんです。
踏み台はなにかをするための道具ではありません。 なにかをするときの助けになる道具です。 お年寄りは手伝って欲しいのではありません。 全部やって欲しいのでもありません。 まずはただ踏み台が近くにあって欲しいのです。つまり、手伝ってくれる人が近くにいて欲しいのです。 そういう安心があるからこそ今日一日もどうやら暮らしていけそうだと思える。この先も大丈夫だと思える。 そんな安心感があるからこそ、命は前を向くのです。
弱った身体での生活を支えるということは、つまり心を支えること。 「安心」や「自信」を相手の心につくって、「生きよう」「生きれる」「生きていて問題がない」という感覚を持たせて失わせないことです。
家族や高齢者ケアスタッフの存在は心の踏み台そのもの。 心に踏み台があるからこそ手を伸ばそうと思える。 そんな関係性を持つだけで、お年寄りの毎日の質は変化するものです。
|
006 | お年寄りのためにレールを敷こう。 電車で旅行するのは楽しいものです。 誰が敷いたのか分からないレールに乗って、目的地に向かいます。そこで美味しいものを食べたり、温泉に入ったり、珍しいものを見聞きしたり。しかし、そんなゴールの景色を期待できるのもレールがあってこそです。
そして高齢者ケアもレールです。 介護業務もケアプランの実行もレールです。 それはつまりお年寄りがその日どこかに行き着くためのレールです。 言い換えるならば、介護業務は決して目的地でもなければゴールでもありません。素敵な旅行を楽しんでもらうためのレールをこつこつと敷いていくことです。高齢者ケアする人はいつも旅行という楽しみを支える陰の立役者なのです。
そして旅行には変更がつきものです。 予定していたレールが好まれなかったり。 準備したレールを選んでくれなかったり。 体調の変化や気分が優れずに予定がキャンセルになったり。
レールってそういうことです。 選ぶのはいつも旅行する人なんです。 高齢者ケアする人はいつだって人生旅行の旅行代理店であって、旅行がスムーズに進行するための添乗員なんですよね。 お年寄りのゴールは今日一日。 介護業務というレールに乗って、「いい一日だった」というゴールや、「明日も楽しみ。しっかりと生きよう」というゴールにたどり着かせる。 その責任を果たすために、いくつものレールを準備していたり、変化に対応できるレールをいつでもつくり出せることが、高齢者ケアをする人の腕の見せどころなのです。
|
007 | 高齢者と思うな。高齢者という「服」を着た人だと思え。 これは私がいつもやっていることです。 お年寄りと話すときは、相手の見た目を取っ払います。
顔のしわも白髪も打ち消します。 力のない目つきやこちらの見る疑わしい表情も一旦置いておきます。 そして、「お年寄りという服」を着ているんだと思い込みます。 私が話しかけるのはその中にいる人です。
中にいる人とはすぐに出会えます。 まず、目の前にいるお年寄りの顔をじーっと見つめて、相手の30歳代、40歳代の頃の顔を想像します。 そして、 ……よく見ると目がぱっちりして美人な顔立ちだなあ。 ……これだけ神経質だからお元気なころはきっとキッチリとした生活をなさっていたに違いないな。 ……若いころのこの人はきっと颯爽としていて、僕なんかは太刀打ちできなかっただろうな。 などと考えて、その当時の「活力のある生き様」や「精悍な顔つき」を思い起こします。そして、目の前の高齢者的な要素を当時のものに変える。入れ歯の口もとも、不自由な身体も、穏やかな雰囲気も、それらはすべて着ている服だと思い込んで、若々しいの相手の姿に意識を集中させるのです。
中にいる人は、自分よりも10歳くらいしか離れていません。 それくらいに思い込んで、目の前の相手の姿と、想像上の相手の姿とすり替えます。 それはほとんど妄想です。 妄想がいやならば、若いころの写真を見せてもらったり、いつでも目につくところに飾っていただいていてもいいと思います。 そうするだけでも「相手は見た目どおりのお年寄りだ」という先入観を取り払って、「相手は見た目はお年寄りだがそれは単なる『服』であって、中身は私たちと同じままだ」と意識を変えることができます。
その同じ人が「お年寄りという服」を着させられて苦労している、と思うから手伝いたいと一層思えます。 するとこちらの態度も自然に変わります。 大変な思いをしている人に対して、言葉も礼儀正しく、表現もやわらかく変化します。
それをくり返していると、だんだんその人のその姿が「仮の姿」に思えてくるんですね。 いえ、多分、高齢の方の、高齢な姿って、実はみんな、その人の「仮の姿」なんじゃないでしょうか。 なのに「仮の姿」で暮らさないからつらいんです。 そもそもお年寄りはみんな意外とそう思っているかもしれません。 これは「仮の姿」なんだと。 本来の自分はその姿の中にしっかりとあるのだからそっちを見てくれと。 いえ、そう思っていていただきたいと思いますね。
|
008 | 1に頼りがい。2に優しさ。 人気者になりなさい。 ひと言でいうとそういうことかもしれません。
でもそんなふうに言うと、「そんなちゃらちゃらした考えで高齢者の健康や身体や時間を守ることができるのか!」と怒られてしまうかもしれません。 だったらこうだとどうですか? 信頼関係を結びなさい。 これだったら怒る人はいませんよね。 相手を好いて、相手に好かれなさい。 これもそうでしょう。 でも、人気者になれとは、要は、そういうことです。
では、どんな人が人気者でいられるのでしょう?
人柄が良さそう。 慈愛にあふれている。 でもいまいち高齢者には人気がない。 そんな介護スタッフさんをたまに見かけます。
実は、高齢者にとって、その相手が「優しい人柄かどうか」はあまり関係がありません。 高齢者ケアするのに重要なことは、目の前のお年寄りがどう時間を過ごしたいのか、どう過ごすべきなのかをきちんと見定めようとする責任感です。そして、その責任の中に「優しく接する」ことや、「いたわりの表現に徹する」ことや、「ひとつでも多く心を上向かせる言葉をかける」という要素が含まれています。 この順番は大事です。 優しいから責任を持つのではなく、責任を持つから優しくするんです。 高齢者ケアする人が優しくて、朗らかで、明るくて、頼りがいがあることは責任の中に含まれるもの。仕事の一部なのです。
そして、仕事の一部の中で、態度だけではどうにもならないのが「頼りがい」です。 手助けをてきぱきとこなし、健康や安全をしっかりと守ることができない人は、いくら優しさがあふれていても大きな助けにはなりません。 高齢者が求めているのは「1に頼りがい。2に優しさ」です。 頼りがいを感じさせる人こそが、お年寄りの暮らしを明るくし、お年寄りの心を支えることができる人です。
心ごと支えてくれる人を高齢者は心から信用します。 そんな人が高齢者世代の人気者になるのです。
|
009 | どんな時でも、口元には笑みを浮かべていよう。 会話は生きる力を生みます。 高齢者に限らず、人間の心には「人との会話」が必要です。 そして会話は言葉でするとは限りません。表情でだっていつも会話していてください。
目が合ったら笑い返してうなずく。 一所懸命に取り組んでいたら眉にシワを寄せる。 口元にはいつも笑みを浮かべておく。 驚くようなことがあったら口をとがらせておどける。 うまく事が進んだら口をまっすぐに結んで力強くうなずく。 こんなふうに目元や口の表情だけでもいろいろな会話をすることができます。
人間の顔の中で、もっともよく動く部分は口です。 この口の表情づくりは意外と重要なんです。 そのことについてこんなエピソードがありました。 ある老人ホームでお年寄りの奥さまとおしゃべりしていたときのこと。ほぼ100歳の奥さまで、毎日車いすでお過ごしですが、とてもかくしゃくとして、ユーモアもたっぷりあって、それはそれはしっかりされている(大好きな!)奥さまです。その方と私が、あるとき、知っていることわざを出しあいっこして遊んでいました。すると、
「目は口ほどにものを言う。 口は目ほどにものを言う」
そんなことをおっしゃったんです。 私は、心の中で、……ん? と思ったまま聞き流しました。シャレを言おうとしたようだけれど、口がものを言うのはあたり前だなあ、と思ってしまったんです。 でも後でよくよく考えたら、それは違っていたことに気がつきました。その方は、「目の表情」だけじゃなくて「口もとの表情」からも相手の心が透かし見えるということをおっしゃっていたんです。 口の表情づくりは大事。 心が透けて見えるから気をつけたほうがいい。 100歳の方が言うんだから間違いありません。 それにしても、100歳とはそんなところにも目をつけているのかと驚かされました。 後で「しまった!」と思いましたが、時すでに遅しでした。 100歳を見くびっていてはいけません。
そして、こうも思うのです。 たしかに会話そのものも大切です。 表情の会話も増やし、心が通う会話も大切です。 でもひょっとすると、会話そのものよりも、実は、「自分は会話するのに値する人間だ」と感じることのほうが大事なのかもしれません。 その感覚を持ってもらうこと。 その感覚を奪うような態度をとらないこと。 会話するということは高齢者にとって「ひとりの人間としての世間とのつながり」なんです。 ひと言、ふた言、立ち止まって言葉を交わすこと。 口もとや目の表情だけで会話をすることだって高齢者にとっては社会で生きている大きな確認になると思います。 言葉でのコミュニケーションが難しい人であればなおさらです。
心が通じ合えばそれで十分会話になります。 相手のつらい心境を察するような心の通った会話をひとつでも多くしてください。
|
010 | 会話は重い。 毎晩、息子さんから電話がかかってくるお年寄りがいます。 携帯電話に録音機能がついていて、その会話の内容を聞かせていただいたことがありました。
「今日はなにしたの?」 「今日はねえ、おやつがこうでねえ、夕飯がこうだったのよ」 「あー、そう……」 「それからリハビリの先生がきてこう言われたのよ」 「あー、そう……」 「私の関節はこうなんだって」 「あー、そう……」
毎晩電話してくれるというからにはきっと優しい息子さんなんだろうと想像してました。なのでこの内容はちょっと衝撃的でした。 いえ、それでもご本人にしてみればありがたいとおっしゃるし、優しい息子で感謝もしているとおっしゃっています。眠れない夜には息子の声を何度も聞いているのだとか。 しかし私には、心弾むような会話にはとても聞こえませんでした。
会話することも大切です。 しかしひょっとすると、実は、「自分は会話するのに値する人間だ」と感じることのほうが大事なのかもしれません。 その感覚を持ってもらうこと。 その感覚を奪うような態度をとらないこと。 誰かと会話するということは高齢者にとって「唯一残された世界とのつながり」なんです。 ひと言、ふた言、立ち止まって言葉を交わすこと。 口もとや目の表情だけで会話をすることだって高齢者にとってはこの世界で生きている大きな確認になります。日々のコミュニケーションが限られている人にとってはなおさらのことでしょう。
心が通じ合えばそれで十分会話になります。 回数や密度も大事ですが、そこはやはり心です。 相手のつらい心境を察するような心の通った会話をひとつでも多くしてください。
|
011 | どんな時でも,ゆっくり、低く、ほがらかに話そう。 会話のしかたについて少しまとめたいと思います。
基本は、ゆっくりと、低く、ほがらかにです。 これは意識的にすること。 意識しないと、つい早口になるし、指示するような声高になるし、とがった声になってしまいます。 お年寄りは「お年寄りという服」を着ていると別の項で説明しましたが、耳もまた「お年寄りという耳当て」をしています。そして、言葉の理解力という力も「お年寄りという帽子」をかぶせられています。 聞いて理解するということにいくつもの足かせがあるのがお年寄りです。 その見えない足かせをしっかりと意識して、考慮しながら、言葉をゆっくりと、低く、ほがらかに続けてください。
ゆっくりしないと理解が追いつかなくて焦ってしまいます。 低くないと耳によく聞こえないのです。 ほがらかでないと気持ちが焦ってしまいます。 お年寄りがそうなってしまうのは、お年寄りに能力がないからではなくて、話す側に会話する能力がないからです。
さて、さらにポイントをあげておきましょう。
相手の心に聞く準備をつくる。 名前を呼びながらそばに寄って話す。 内容は要点だけ短く。
「○○さあん、こんにちは。顔色がいいですねえ。お風呂はいりました? へえ、そうですかあ。○○さん、ちょっとお話きかせてもらっていいですか……?」 話しの切り出しには十分に間をとってください。すると、 ……なにか言いたそうだけど、なにかしら? さあ、聞かれたら答えよう。 という心になってくれます。 つまり、他人の部屋に入るときみたいに、心にもノックをするんです。 その用意ができたら顔つきでわかりますので、相手の表情を確認しながらこちらの用件を伝えます。 そして、耳が不自由ならば大きな声で話すのではなく、耳のそばではっきりと話すこと。 名前を呼んだり、自分の名前を伝えたりして、状況を混乱させないように。 基本的には言葉も短く、余計な情報は挟まないこと。 しかし、いつもの人が来てなにかを話しにきたなと状況を理解してくれれば、ある程度のスピードで会話をすることができます。
会話って、車の運転と少し似ていると思います。 キーをさして、エンジンをかけて、まずは車庫から道に出る。 目的地や走行ルートをイメージしながら、ゆっくりと走り出す。 周辺の状況を判断をして、情報もひとつひとつチェックして、他の車との流れに乗っていく。 普段、お年寄りは居間のソファにいます。 それを急にバス通りに引っ張りだそうとするとお年寄りでなくても混乱します。 ゆっくりと間をとって、エンジンが温まるのを待つことが大事です。そして、いつでもエンジンが温まりやすくなるよう、しょっちゅう声をかけて会話をしておくこと。そういったことが生きていくための「地力」につながります。
|
012 | どんな時でも、元気な姿で元気づけよう。 どうやって元気づけたらいいのかわからない。 たまにそんな相談を受けることがあります。 若い介護士さんも悩んでいますし、ご家族もどうしていいかわからないときがあると思います。真剣に相手のことを考えているからこそ、どうやっていいのかわからなくなるものなのかもしれません。
でも、元気づけるのにそれほど難しい方法はいらないと私は思いますよ。 自分自身が元気な様子でふるまっていればいいのです。
表情にも。 態度にも。 言葉じりにも。 元気を弾けさせてください。 そして、明るくて、堂々として、自信たっぷりで、頼りがいのある余裕しゃくしゃくな態度でふるまいます。 そのエネルギーがあふれる姿を見ているだけでお年寄りは元気が出てくるものです。
廊下を歩いているとき。 エレベーターを待っているとき。 どんなときでも元気な姿を意識します。 介護業務だったら、食事の準備、周辺業務、汚れたものの片づけ……、あらゆる仕事を楽しそうにニコニコとこなしてください。その明るい表情や姿でお年寄りの心は救われて、心の栄養にしてくれます。
「あんたに会うと元気が出る」 「あんたの姿を見てるだけでおかしい」 「あんたとしゃべってると勇気がわく」
そんな言葉がきっと聞けると思います。
|
013 | まず声をかけて、きちんと返事があるまでは動かない。 私が開催している「来てくれる教室」は会話の連続です。 「どんな内容か」よりも「どんな手ざわりを残すか」を大切にしています。
手ざわりの残らない会話。 逆に,冷たい手ざわりを残してしまう会話。 そんな会話にならないよう注意しています。
たとえば、こんな会話はNGです。 こちらから話しかけておいて、答えを待たずに先に進む会話。 なにかを答えてくれたのに、うまい返しのひと言もなく先に進む会話。 表情が曇っているのに、気がつかないまま話し続ける会話。 そのような会話は、取り残されたような寒々しい気持ちを相手に残してしまいます。
会話だけではありません。 すべてのアプローチについて、いい手ざわりを残すことを意識します。 たとえば、部屋に入るときや、声をかけてなにかをうながすとき。 常に、一拍待つこと。 先に進めずに、絶対に相手を待つことです。 相手の心が、こちらの存在を感じ取って、会話がはじまることを認知して、その十分な準備してもらうためにも、とにかく待つこと。
ノックはしても返事を待たずに入室したり、エプロンをかけながら「エプロンかけますよ〜」と言ったりするのは相手の存在を完全に無視していることになります。 「私、急いでます!」という表情を隠しもせずに話しかけたりするのも、ただの自分勝手。 相手が弱い立場であることをいいことに自分の思い通りに進めている自分の心の卑しさに気づいてください。
こんなに大変な状況なのにこちらのことを待ってもくれない。 いつも待たして迷惑をかけてしまっていて申し訳ない。 できない自分が情けなくて不甲斐ない。 高齢者ケアの仕事は、いかにそういう気持ちにさせないかという仕事です。 大事なのは心の扱い方です。どんなに言葉や態度が丁寧であっても、相手の心の扱いが雑だと相手の心は閉じてしまいます。 生きる力を奪ってしまい、生きる心を深く傷つけてしまいます。
だからこそどんなときでも声をかけるときは自分のギアを一度ローに入れ替える。 できれば確実に一旦停止。 気持ちに一拍おいてから、ゆっく〜り声をかける。 相手の心がきちんと反応するまでは動かない。 私だって意識していないと自分のペースでやってしまおうとすることがあります。 大事なのは意識をすること。 そんな習慣づけをすることなんだと思います。
|
014 | ちょくちょくそばに座ろう。 介護の教科書には「寄り添いなさい」とさかんに書かれています。 しかし、実際に寄り添う人はあまりいません。
でも、悲しそうで,つらそうで,心が不安や失望で覆われている、そんな表情のお年寄りがいたら、たとえ何かをやっている最中だとしてもそれを中断してその人のそばに寄り添ってください。 解決しなくてもいいんです。 気の利いた言葉もいりません。 ただ肩を並べて座ってあげてください。 ただ近くにいるだけでもいいんです。 そして、相手と同じ表情をして、「どうしたの、大丈夫?」と声をかけてください。 しばらくそうしてからやっていることに戻って、その後はちらちら視線を合わせてあげながら様子を見ていてあげてください。
そんなヒマないよ! という人もいるでしょう。 ヒマがあろうとなかろうと、大切だし、必要だから寄り添うべきなんですけどね。血を流しながら床に倒れているのと同じなんですよ。高齢期を過ごす人とって「寂しい」とか「心細い」とか「不安だ」ということは。
いつでも「置いてけぼりの不安」を感じさせないこと。 そして、「置いてけぼりにされなくて良かった」という安心に変えること。 私はそう考えています。 マイナスの表情はプラスに変えるいいチャンスですから、何かがあったらそばに座ったり、何もなくてもちょくちょくそばに座ることを意識的にやっています。
結局のところ、高齢者ケアは不安の解消です。 高齢者ケアを難しくするポイントは不安な気持ちが原点ですし、その不安のいつも気にかけていることが問題クリアの基本だと思っています。
|
015 | 近所のあんちゃんでいよう。 人それぞれに責任感の出発点があります。
介護士、ご家族。 医療、施設。 地域、行政。
それぞれのスタンスの違いによって目標とするゴールは少しずつ変わりますし、その責任感が生まれるポイントも変わってきます。 私は、介護士や教室の先生役などいろいろとやっていますが、いつも気持ちの1割くらいは近所のあんちゃんでいようと思っています。
頼りがいがあって。 寡黙で、いつもニコニコしていて。 世話焼きで、よく心配してくれる。 そんな近所に住んでいるあんちゃん。
そんな人こそが高齢者を助けようとする心を持っているんじゃかなって思うからです。
|
016 | たくましく、たくましく。 私が介護施設で夜勤業務をおこなっているとき、かならず近所の小さな祠に立ち寄っていました。 そして、手をあわせてこう唱えます。
「たくましく、たくましく、たくましく……」
夜勤業務の間、いろいろなことが起きます。 はじまる前から、今夜はどうなるか大変そうだ、というときもあります。 認知症の不安症状がどうしてもおさまらない夜もあります。 急な発熱をされる方もいますし、一週間ほど容態が悪い日が続いている人もいます。 その晩に亡くなるということも何度か経験しました。 しかし、なにがあってもたくましくいること。 どんなことがあってもたくましくて冷静で男らしくいようと、私はいつも祠の前で手をあわせて気持ちを高めていたんです。
へっちゃらですよ、平気です。 あなたは絶対に大丈夫ですからね。 だから今日は朝まで安心してぐっすりお休みください。
一晩中自分がそんな態度でいられることを祈っていたのです。
|
017 | 未来をたくさんつくろう。 体力が落ちてしまった人。 不自由な生活を余儀なくされた人。 社会とのつながりが減ってしまった人。
いろいろな機会を失った人にとってつらいことは、どうしても心が前を向かないことです。
お年寄りの暮らしには前が必要です。 明日やることがあるとか。 明日来る人がいるとか。 今月はあと何回、これをやらないといけないとか。 具体的な未来の目標になることをなるべく探して、課題として渡すようにしてください。お年寄りだけではなく、人間だったら誰だって「前」が必要なんです。
私の名前は富永です。 これからは毎月二回来ますので僕の名前、覚えてくださいね。 忘れても何度でも教えますから、聞いてください。 今年の年末までに覚えてくれればいいので。
半分冗談のような未来の目標を渡してあげると、お年寄りによっては「へへん、年末まで生きたらね」なんて笑って言ってくれたりもします。 「じゃあ、生きてるうちで結構です! ……っていうか、さっき長谷川一夫は顔写真で名前当てたじゃないですか。僕のことだって覚えてください!」 そんなことも言ったりして。 でもそれだけだっていいんです。 前について話すだけでも人間の心は十分うきうきするものですから。
元気に、前向きに、希望を持って! お年寄りのことを漠然と励ましても、何を目標にして、何をどう前向きにいればいいのか見当もつきません。 大事なことは具体的であること。 小さくていいので未来のイメージをつくってください。 「明日来ますね。ゆっくり休んでください」 「今度ぜひいっしょにラーメン食べましょう」 「来年の桜が楽しみですね」 これでもひとつの大切な目標になると思います。
|
018 | いつまでも社会人でいてもらおう。 私は高齢者向け移動教室をやっていますが、楽しんでもらうことや頭の体操が目的だとは思っていません。 教室の目的は「場」をつくることです。
場とは、自分を発揮する場です。 つまり、生きていく社会の場です。 そのような場がないから高齢者の元気がなくなってしまい、認知症を発症させて進行させてしまい、けがなどのリスクも増やしてしまいます。
生きる場を奪うことは生きる力を奪うことそのものです。 生きる場をつくらないことは生きる力をつくらないことそのものです。 そのことを全国の老人ホームは危機感を持って考えたほうがいい。 私は切にそう願います。
場をつくって自分を発揮する機会をつくる。 一社会人でいる場をつくって,その場をいつの場にして、継続的にある状態にする。 そうするからこそ、いつまでも社会に生きる場を持った一人の社会人でいることができます。
生きる場があるからこそ生きるんです。 人間のあたりまえのことです。
|
019 | 元気でいるという責任を持ってもらおう。 できることもない。 行ける場所もない。 話す相手もいない。 食べて寝ているだけ。
自分は結局それだけの存在なんだなあと思ったら、 「早くお迎えがきてほしい」 と、死を思うようになります。 誰かの迷惑になるだけの存在ならその人のためにも早くいなくなりたいと考えるようになります。 これは自殺願望ではないですよ。 誰かの役に立つことができる唯一の生きる道だという、お年寄りにとって前向きな願望なんです。
でも、その前に重大な責任がありますよ。 死というのはいつか誰にでも来るけれど、その時まではできるかぎり健康のままで、ケガもせず、まわりの誰も慌てさせることなくしっかりと生きていてください。 それはお年寄りが毎日心掛けなくてはいけない重大な責任です。
これまで何人ものお年寄りにこんな話をしてきました。 ○○さんには責任があるよ。 健康に気をつける責任がありますからね。 ふたりっきりの居室や病院で手を握りながら、時にほんわかと、時に力強く話します。 すると、その言葉を否定するお年寄りなんて一人もいないんですよね。 ああ、そうだった。 それがあった。 って顔をしてくれるんです。
その責任よ! 意識に定着してくれ! と私は祈ります。 そうすれば「生きる目標」になるんです。お迎えが来てほしいなんて願うヒマもないくらい、そっちに集中して熱中できるはずなんです。
毎回の教室の終わりがけに私はこんなことを言っています。 2週間後にまた参ります。 季節の変わり目ですから、体調管理に気をつけてくださいよ。 また次回もここで今日と同じメンバーで会いますから、それまでしっかり暮らしてくださいね。 本人がやれることはやらないと健康は保てませんから。 今ある元気は本人の気合いと根性で維持してください!以上!
また会う。 その約束のために。 お年寄りにはそんな責任を感じて、生きる力に変えていただきたいのです。
|
020 | 楽しいよりも、うれしいをつくろう。 いつも退屈そうにしている……。 いつもしょんぼりとして元気のない表情をしている……。 だから楽しいことをしてさしあげたい。 それはとても人間的で心の優しい発想だと思いますが、多くのお年寄りにとって必要なことは「楽しい」ではなくて「うれしい」なんです。
ただ単純に退屈で楽しみを探しているという比較的元気なお年寄りだったら「楽しい」でもいいかもしれません。 しかし、高齢者ケアを受けるような年寄りになったという事実は本人にとっては「悲しみ」です。その上、障害で苦しんでいたり、痛みや失望と戦っている方にとっては「うれしい」と感じることのほうがよほど必要なことです。
はじめて教室をする場所や、教室にはじめて参加してくれる方がいると、私はいつもこう考えるようにしてます。 このお年寄りが笑顔ではない理由はなんだろう? その理由の理由はなんだろう? その理由の理由の理由はなんだろう……? デイサービス、ショートステイ、特養入居、老健入居、入院中……、それぞれの状況で笑顔を奪う理由はまったくちがいます。 だからこうしよう、こう話しかけようと考えます。 でも、理由の理由を最後の最後まで掘り下げていったら、行き着く答えはひとつです。 それは老いてしまったことの悲しさです。
では、悲しい人に必要なものはなんですか? 楽しい笑いですか? おもしろおかしい笑いですか? いいえ、違います。 うれしい笑顔なんです。
お年寄りに必要なものは楽しいことではありません。 うれしいことなんです。
|
021 | 喜ばせない。いっしょに楽しむ。 初詣で。 お花見。 夏祭り。 お年寄りを喜ばせるためにいろいろなイベントが企画されます。
リアクションのいいお年寄りというのはどこにでもいますので、まったくの無反応ということはないでしょう。でも、全員かというとそうではない。へたしたら参加したうちの半分くらいは「ただそこにいた」だけで終わってしまうこともあります。 結局、リアクションがいい人向けのイベント。 結局、クレームが多い人向けのイベント。 結局、写真を撮るチャンスをつくるためのイベント。 結局、派手さで刺激を与えるだけのイベント。 そんなイベントって案外多いのではないかと思います。
さて、イベントってどう考えればいいんでしょう?
教室もひとつのイベントです。 ビックイベントではありませんが、小さなイベントを定期的に継続して生活にリズムをつくり、生活の憂さを晴らす場にもしてもらうという意味では、初詣にも夏祭りにも負けないイベントだと思っています。 お年寄りにしてみれば催しごとの派手さや賑やかさはちょっと重いかもしれません。 そもそもお年寄りにとって大事なことは幸福感や満足感です。 大きな出来事をつくるよりも、中くらいの「いい気分」をちょくちょくつくることのほうが大事だと思います。
イベントの大事なポイントはいい気分を残すことです。 いい気分になってもらえればお年寄りの心は十分盛り上がります。
とは言っても、いい気分にするにはどうすればいいのかが難しいところかもしれません。 そのためにはまずは何よりも、心を込めて一生懸命な姿を見せてください。 そして、一緒に楽しむこと。 楽しませようとせずに自分も楽しむことです。 お正月の初詣でならば、「はい10円。拝んできて」と言うのではなく、「私もお祈りします。今年こそ結婚できますように! ついでに、○○さんが健康でいますように!」と聞こえるように言えば楽しいでしょう。 お花見ならば、「あっちが咲いてる。ほら見て,はい写真」と言うのではなく、「は〜、気持ちがいいですねえ〜。久しぶりに桜見ながらのんびり歩いたわ〜。こんなんだったら毎日来たいわ〜!」なんて心から喜んで楽しむ。 その日だけ喜ばせようとする一方的なつながりではなく、日頃から喜びを共有できるつながりを一人ひとりとつくっておくことがやはり一番大事なことなんだと思います。
|
022 | 頭の体操は心の体操。 私が教室をするとき、 「みなさんこんにちは。今日は頭の体操をやりましょう」 という説明はしません。
みなさんこんにちは。 ○○さん、調子はいかがですか? おお、そうですか! 顔色もいい! 声にもハリがある! 申し分なしですね! なにか運動やってますか? やってない? 運動不足? そうなりがちですよねえ〜。 ○○さんは運動は? 毎日3往復歩いている? 素晴らしいっ! 100歳の健脚美人ってそのうちテレビが取材しにくるかもよ!
まあ、運動って大事です。 週に一回、体操の時間もありますよね。 無理に参加することはないですけど、やっぱり出ていたほうがいい。 いいって言うより、気持ちがいいもんね。 身体ってのは動かすようにできてるから、動かさないでいると身体が気持ち悪くなります。適度な運動は身体にとっていちばんの薬。手を挙げたり、膝を曲げたり、身体を思いやるつもりで動かしていただきたいなあって思います。
でも、動かさないとなまるのは身体だけじゃないですよ。 口もそうです。 言葉を発するっていうのはとても大事。 まず口の中が健康になりますね。だ液がたくさん出ます。消毒したり、悪いものを流してくれます。口の中が清潔だと胃腸も健康を保てます。胃腸が健康だと食欲もわくし、食欲があれば元気もでます。たくさん食べるとアゴを使いますから脳への刺激もたくさんいきます。 健康の源。 それは口です。 たくさんしゃべってください。 こんにちは、ありがとう、馬鹿やろう、この野郎、なんだって構いません。 いろいろな言葉をつかって、いろいろな人の名前を呼んで話すことはとってもいいことですよね。 使わないと口だってなまる。 言いたい文句もすっと出てこないとケンカすることだってできません。
頭もそうです。 頭だってたまに動かさないとなまりますよ。 頭の運動不足というのは一番いけません。頭を動かさないってことはどういうこと。 なにかを見ても感動しないとか。 なにかを見ても疑問に思わないとか。 なにかを見ても美しいなとか嫌だなとか感じないとか。 頭を使わない人はだんだん心も動かなくなります。 だから、頭の体操って大事なんですよ。 頭の体操することは学校で勉強するのとはちょっと違うんですね。 つまり、クイズだとか、おしゃべりでもなんでもいいんですが、頭をつかってやりとりして心を動かすことに意味がある。
頭の体操って、心の体操なんです。 心をしっかりと伸ばしたり縮めたりしていただきたい。 その体操のためにちょこっと頭をいじめて楽しんでいただきたいと思っていますよ。
と、こんな感じです。
頭が理解することが大事ではありません。 大事なことは心が受け入れることです。 頭になにか知識を詰め込んだり、新しい能力を身につける必要もありません。 大事なことは心が前を向くこと。 明日生きる力になることです。
|
023 | お年寄りの心の中に生きる力をつくろう。 世の中のあらゆる仕事は「誰かの生きる力」につながります。
田んぼの農家だってそうです。 八百屋さんだってそうです。 レストランのコックさんもウェイターもそうです。 バスの運転手さんだってそうです。 警察官だってそうです。 歌手やお笑い芸人だってそうです。 みんなみんな、誰かが生きる力になるものをつくったり、生きる力を守る役割を担ったり、生きる力を強くしたりします。 誰かの生きる力を生みだすということがお金になるのが世の中です。
「生きる。生きたい。良く生きたい」
お年寄りの心の中にそんな気持ちをわかせるのが高齢者ケアという仕事です。 病苦があるお年寄りもいるでしょう。 もう治らない障害があるお年寄りもいます。 前向きな気持ちにどうしてもなれないお年寄りもいます。 そんなお年寄りの「生きる力」を失わせないように働いて、毎日毎日つくり出すように働くことが高齢者ケアです。
高齢者ケアは「誰でもできる作業」なんて言っているのは誰ですか? これほど難しい仕事はなかなかないと思います。 死を感じている人に「生きる力」をつくる仕事ですから。
高齢者ケアは「誰もやりたがらない仕事」なんて言っているのは誰ですか? この仕事は仕事の中の仕事だと思います。 死を感じている人に「生きる力」をつくる仕事ですから。
高齢者ケアは「つらい仕事」なんて言っているのは誰ですか? これほど「生きる力」を相手に与え、「生きる力」を与えてもらえる仕事はないですよ。
私はいろいろな仕事を経験してきました。 しかし、高齢者ケアだけは「働いている」という感覚がほとんどしないのです。それはすべての作業が「生きる力」に直結していると感じるからだと思います。高齢者ケアほどすぐに誰かの役に立てる仕事はありません。 これほど手ごたえの大きい仕事はありません。
|
024 | ただ話すのではなく、世間の風を吹かそう。 ご家族が海外で暮らしているお年寄りがいます。 たまに会いに行くのですが、その方があるとき、こんなことを言っていました。
「……私、いつもここで何やってんだろう」
その方は毎日ほとんどの時間をお部屋で一人で過ごしています。 空白の時間の長さを思うとぞっとしました。 また別の人はこんなことも言っていました。
「毎朝,起きたら、今日は誰が来てくれっかな〜、孫かな〜、娘かなあ〜っていつも思ってんの。昼間もずっと何回も部屋の入り口を見んの」
老人ホームの一室では誰の部屋でもそれがくり返されています。 また別のある人は、私にメールでこう伝えてくれました。
「こうやってメールを書くだけで安心できます。誰かが私とつながってくれいていることがわかるからです」
もちろん老人ホーム環境だけとは限りません。 高齢者の暮らしにはいつでもありうることです。 まわりに人がいるのに言葉もかけられないし、心もかけられない。 近くに世間があるのに風が吹いてこない。
それでは健康は保てません。 それでどうやって生きる力を保てるというのでしょう。 お年寄りは一日千秋の思いで誰かがそこにやってくるのを待っています。できる限り、顔を見にいってあげてください。 「元気? 顔見に来たよ」 という理由でいいんです。 「今日はどうした? 声聞こうと思って」 という理由で電話もしてください。 ちょくちょく顔を出して、ちょくちょく声をかけて、そして世間の風を吹かせてあげてください。心の中身を換気するような感じでおしゃべりして、心の澱がなくなったと思ったら、 「じゃあ、またね」 と次の約束をしてください。 それがまた世間とのつながりになるはずですから。
|
025 | イレギュラーについて積極的でいよう。 お年寄りの毎日にひだをたくさんつくってください。 心の機微にふれたり、世間の風にふれたり。 ちょっとした一瞬のことでいいんです。 人間の心を後退させるのは、淡白な毎日です。 毎日に必要なのは枝葉末節です。
高齢者ケアをする側にとってイレギュラーなことはできれば避けたいと感じるものです。 健康への影響、ケガのリスク、手間のことなどを考えると、どうしても慎重策が選ばれがちです。 しかし、整然と,確実に、把握できるように管理したいと思っているのはケアする側のエゴです。ケアする人には責任がありますが、その人の人間らしい生活を奪ってまで何かをしてもいいという権利なんてありません。
お年寄りの毎日をどうするか。 その生活環境をどうするか。 判断の基本は、より安全で安心であることではありません。明日に向かって心が自由であることです。
望みを奪わない。 継続を終わらせない。 能力や希望を失わせない。 その人らしいということは、他の人は別に望まなかったことを、その人が望んで実現するということです。 若い頃、ジャズが好きだったからジャズを聴かせましょうとか、スポーツが好きだから夕方は必ずお相撲を観てもらいましょうとか、それはそれでその人らしさの実現かもしれませんが、老いた環境を背負った上でのその人らしさというものが一番大事なのではないかを思っています。
イレギュラーなことをすることは生活に色彩がうまれます。 そこには「その人らしさ」がうまれます。
逆に、それを奪うと、失望をうみだしてしまいます。 やれていたことができない。 やりたいと思ったことをさせてもらえない。
|
026 | お見舞いに行こう。 年末やお正月。 桜が咲いた日。 梅雨明けした日。 お盆やお彼岸。 誕生日や記念日や祝日。 節目というのは心さびしくなるものです。 そんなときに私は、積極的にお年寄りに会いにいって、元気な姿を見せにいきます。
|
027 | いい家族も悪い家族も、お年寄りの一部だと思おう。
|
028 | ご家族の味方になるな。 つまり、お年寄りのいちばんの味方であれということです。
そもそも介護というのは、「ご家族からお年寄りを預かっている」のではありませんよ。 お年寄り本人から本人を預かっているんです。 誰がお金を払っていようと、誰が努力をしていようと、高齢者ケアの対象はお年寄り本人です。お年寄りの心と身体なんです。 ご家族の言葉を大切に考えることは当然です。しかし、ご家族の言葉がご本人の心を上回るのはありえなません。 ご本人の心とご家族の考えをてんびんにかけて、フェアにジャッジするのが高齢者ケアの仕事そのもの。 そして、ご家族よりも冷静に高齢者の心を考えることができて、知ることができるのは、高齢者ケアのプロだけなのです。
ご家族にとっても「肉親が老いる、肉親を亡くす、その責任を果たさなくてはいけない」という人生の一大事に直面しています。ただ、どうあれ、これから命を亡くす人が優先されないことはないのです。 家族がご本人にとって不利益な言動をしているときは、高齢者ケアのプロは「家族の間違いを諭す」べきです。 それがご本人にとっての責任です。
|
029 | 全体でくくらずに一対一をしよう。 お年寄りにとって「全体」としてくくられることは大変な苦痛です。 イベントをおこなうときも、介護業務をおこなうときも、教室で全員に何かを話すときでもそうです。 お年寄りとはいつでも一対一、ひとりの人間対ひとりの人間という関係でいてください。
そこにいるのは敬意を払うべきひとりの社会人です。 名前があって、仕事があって、家族があって、大事な今日明日未来をもったそれぞれの一個人です。 人間は誰でも、一人前の社会人扱いされると緊張するものです。きちんと対応されるからこそ、 「よし、きちんとしなくちゃ」 「恥ずかしくないようやるぞ」 「しっかりとしていよう」 って心のスイッチが入るものです。
歌を歌うときも、 「さあ、みんなで歌いましょう」 なんて私は言いません。 他の人と一緒にされてたまるかって思われたくありませんから。 そりゃそうです。 それぞれ、自分の人生を必死に生き抜いてきたんだもの。 他の誰かと並べられたり、比較されたりするような人生なんて誰も送ってきていないはず。 一緒にすんな!と思うくらいの意地をぜひとも持っていていただきたいですもんね。 歌を歌うなら、 「それぞれ、歌いたい人はどうぞ歌ってください」 これで十分。 それぞれ「ご判断」していただくことがあたり前の基本なんです。 大人なんですから。
相手は一社会人です。 こちらも一社会人です。 その一社会人同士のつながりがあるからこそ、「一個の責任ある人間」という意識を引き出していただくことができます。
ただし、それが「一個人」となると話が変わってきます。 個人同士、友人同士というのは、それぞれの感覚によってルールの幅が異なります。 高齢者ケアはあくまで社会の要請にもとづいて存在するもの。 個人が個人にするものではありません。 相手は踏み込めない個人の部分を持っていて、その部分を最後まできっちりと尊重する意識を忘れないでください。
|
030 | いっしょに心から笑い、悲しもう。 お年寄りに笑ってもらうのに言葉はいりません。 こちらがニコニコ笑っていればお年寄りは笑い返してくれます。 反対に、こちらがキーッとなっていればお年寄りの気持ちは高ぶったり、暗くなったりしてしまいます。
高齢者の前ではいつも笑っていてください。 一生懸命笑っていてください。 笑っている人がそばにいるということはお年寄りに安心を与えます。一緒に笑ってくれる人がいるということはお年寄りに元気を与えます。笑うというのはお年寄りのすべてのためになります。
ただし、敬意のない笑いは禁物。もちろん相手の心を深く傷つけてしまいます。 笑いながら謝らないこと。 笑いながら怒らないこと。 笑いながらごまかさないこと。 相手の真剣をふざけて返すのは相手に対する侮辱以外の何ものでもありません。
そして、お年寄りといっしょに笑うことも大事ですが、それ以上に大事なことはいっしょに悲しむことです。 施設で暮らすお年寄りで1秒で長く生きていたいと思う人は正直いってほとんどいません。 自由もない。 やることもない。 できることも少ない。 家族に引け目を感じている。 身体も悪い。 判断もおぼつかない。 いいことはあまり起こらない。 まわりにいる人はみんないい人で励ましてくれはするけど、こんな状況で長々と生きながらえるのは苦し過ぎる。 そう多くの人が感じています。
その気持ちを十分に想像していてください。 そう思う権利があると理解していてください。 確かに、返事に困ってしまうような悲観的な発言もあるかもしれません。 でも、そんなときに相手の言葉を全否定して無理やり励ますよりも、相手の悲しみを受け入れていっしょに悲しむほうがどれだけ相手の力になるかわかりません。
悲しみを否定されるとお年寄りは絶望します。 悲しみを共有されるとお年寄りは希望を持ちます。
喜怒哀楽。 いろいろな意識にこちらの意識をあわせてください。 喜んでいるときは、いっしょに喜ぶ。 怒っているときは、いっしょに怒る。 悲しんでいるときは、いっしょに悲しむ。 楽しんでいるときは、いっしょに楽しむ。 そうすることで人間の心は浄化されます。お年寄りの心に必要なのは「不安な心」「悲しい心」「つらい気持ち」を浄化することではないでしょうか。
|
031 | いっしょにがんばろうと言おう。 高齢者ケアはいつも判断をせまられます。 でも、いつもいい正解を見つけることができるとは限りません。解決はおろか、なにが問題なのかもわからないこともしょっちゅうです。
だからといって無理やり正解をつくってそれにあてはめるのはいかがなものでしょう。 それってやっぱりお年寄りにはつらいこと。 かといって宙ぶらりんのままではなお悪い。 それでは不安や不信感につながります。
私はお年寄りから相談を受けたりすることが多いのですが、いますぐに笑顔になれる答えがないときは、 「なかなか難しいですが、いい方法をいっしょに考えていきましょう」 と声をかけます。 そして、後日もできるだけ話題に出して、気にかけ続けます。いいアイデアやいい情報も積極的に伝えます。 結局、まるで力になれないことも多いのですが、でもその姿勢を見せることも高齢者ケアの大切なポイントです。
いっしょだとできることたくさんあります。 たとえば、早口言葉。 発語がどうしても難しい人には、「生麦生米生卵」だってなかなか難しい。 言葉がうまく出ない上に、間違ってしまうことが怖いから余計に言葉が出てきにくくなる。 「じゃあゆっくり、いっしょに言いましょう、な〜ま〜む〜ぎ……!」 こうやるとこちらの口もとを見ながら、相手も口を動かし、発語できるんですね。 いっしょにする人がいるときの勇気や安心感は、誰にとっても本当の力を引き出すきっかけにもなるし、踏み台にもなります。 だからこそ、いっしょにをたくさんくり返してください。 いっしょに考えましょう。 いっしょに行きましょう。 いっしょにやりましょう。 いっしょに探しましょう。 いっしょに帰りましょう。 その言葉が問題の半分くらいを解決してしまうこともあるんです。
でも、いつもいつもいっしょとはいきません。 お年寄りの居室を訪問したときにもどこかで切り上げないといけません。 後ろ髪がひかれるような思いがして、なかなか退室できなくなってしまうこともよくあります。
相手の顔を見ていると、まだ満足していないようだったり、顔では笑っていても心では泣いているようだったり、ぽっかりと空いた心の穴をいつまでも埋められないでいるようだったり……。そんな様子を感じ取ると、そのままひとりぼっちにはしておけなくて、あと5分、あと10分と滞在が延びてしまいます。 それでも帰る時間はやってきてしまいます、 そんなとき私はこう言います。 「いっしょにがんばっていきましょう。大丈夫、みんないますから」 「おたがいがんばりましょう。おたがい風邪ひかないよう気をつけましょう」 「僕もがんばります。かみさん大事にしてがんばります」 たくましく明日を向くような声でそう告げる。 「がんばってください」っていうと悲しい顔をされますが、「がんばりましょう」というと表情に光がさすんですね。
|
032 | ギブアンドテイクを意識しよう。
|
033 | あたり前の顔をして、おたがい様ですよと言おう。
|
034 | 最後までつき合おう。 誰かの心がないと人間は平静に生きていくことができません。 それは飲み水がいつも近くにあることと同じくらい重要なことです。 誰かの心が、自分の心のそばにあること。 自分の心が、社会の中にあること。 それは、お年寄りだけではなく人間ならば誰もが大切にすることです。
お年寄りのそばにはいつも誰かの心を置いていてください。 特別に濃くなくていいので、いつも自然にそこにあって、いつまでも長く、最後まで離れないでください。
|
035 | 励ましではじまり、励ましで終わろう。 お年寄りに必要なことはなにか。 それはまず励ましだと思います。 前を向ける言葉で励まして、希望が持てる態度で励ましてください。 「おたがい様だから、気にしないで!」 「一緒にぼちぼちがんばりましょう!」 「私たちがいるから大丈夫!」 「いいお正月を迎えましょう!」 「一日にこれさえすればバッチリですよ!」 こんな励ましの言葉を、表情、態度、存在感とともに伝え続けてください。 そして、どんな時も味方である気持ちを忘れないでください。 薬を飲んでくれない。 「薬、飲みませんか? 了解、了解。今はやめておきましょう!」 お風呂に入りたがらない。 「お風呂なんて入らない? そうですね、今日は寒いからよしましょう!」 家に帰りたいと言う。 「家に帰る? そうですか、ではすぐに支度しましょう!」 言葉で攻撃をしてくる。 「すみません! 私のやりかたが悪かったですね!本当に申し訳ありません!」 相手がどんな間違いをしていたとしても、それは年齢が本人にそうさせていること。認知症がそうさせていること。病気がそうさせていること。 そうしてしまうことに苦しんでいるのは本人であると考えましょう。
|
036 | お年寄りは自分だと思おう。
|
037 | 老いることは人生でいちばん大変なこと。 お年寄りにこんな質問をすることがあります。
年をとったら毎日悠々自適にのんびり暮らそう……。 って、思っていませんでしたか? でも、実際どうですか? 老いるって大変でしょう? はあ〜、こんなに大変だったのか〜!って気づくこと、多いでしょう?
そう尋ねると、みなさん、実感を込めてうなずいてくれます。 老いることがとっても大変なことだとは知らない方が多いんです。 そこが老いの問題を大きくするひとつでもあります。 (いいグループホームにお住まいの認知症の方は「え?私たちのんびり暮らしてますが?」と真顔で答えてくれますが。。。)
「老いる」という問題は、人生の他の問題とはまったく違います。 これまでは、働くことや、協力を得ることや、代わりのことをがんばることで、どうにか人生を前に進めることができましたが、老いることは根本的にはどうしようもできないことです。 起きることもひとつやふたつではなく、いろいろな面でいろいろなことが起こって複雑に問題がからみあいます。 解決できないことも多いし、アイデアすら浮かばないことも多い。 ひとつ解決できても、出てくる問題、解決できない問題が次々出てきて追いつかない。 自分ではどうにかしたいけど、まわりのみんながあきらめてしまう。 終わりのない問題解決にまわりの人を巻き込むこともいやだ。。。
私は冒頭の質問に続けてこんな話をします。
人生は一生勉強っていうけど、本当なんですねえ。 僕は月に100人くらいのお年寄りと会ってお話ししていますけれど、みなさん、本当に大変。そして、どうにかしよう、どうすればいいかと、いつも考えていらっしゃるし、悩んでいらっしゃる。できないことも多いし、あきらめることも多い。でも、できる範囲でできることを探したり、なにしろこれ以上大変さを増やさないようにそれぞれに工夫して、それぞれに努力なさっている。 それをまわりは気づきにくいんですね。 でも、お年寄りががんばることって大変なんですよね。 視力も落ちた、耳も悪い、足も手も調子が悪い。 その中、慎重にいろいろなことをやり通さなくてはいけない。 遅くなってしまってはいけない、途中でトイレに行きたくなってはいけない、ましてや転んでしまっては最後だ、ましてや心が折れてすべてをあきらめてしまってはまるで力が入らなくなる。 力を込めて、力を込めて、みなさん毎日を生きていらっしゃる。 毎日を懸命に生きて、次々起きることを学んで暮らしていらっしゃる。
私はそんなみなさんの大変さをそばにいてずっと見ていてよく知っています。 毎日忙しい介護士さんも忙しい仕事をこなしながら、みなさんの心の底はよく知っています。 ご家族にとっては、「両親が老いる」というのは自分の問題でもありますから、そこまで簡単に頭の整理ができるものではありませんが、その点、まわりにいるプロの人達や専門性を持った人やその心をわかってくれる人はたくさんいますので、ぜひ安心をしてくださいね。。。
老いることの大変さをわかること。 どう大変なのかを言葉で整理して言ってみせること。 お年寄りがまず欲しいことは理解です。 それでもそれぞれの状況を完璧に理解することはできませんが、少しでも理解の一端を示して差し上げることで、
はあ、地獄に仏とはこのことだわ。
ってお年寄りは安心することができるんですね。
|
038 | 老いは不治の病。
お年寄りはきっと、 「この世の中を見ていられるのもあと何年かだなあ」 って考えていますよ。 この世がいかにいいものか見せるためにあたなはいます。
お年寄りはきっと、 「春を見るのもこれが最後なのかなあ」 「もうお寿司を食べる機会はないかなあ」 「温泉に入って気持ちがいいなんてことももうないだろうなあ」 って考えていますよ。 一本の桜の木の美しさが100本分、1000本分の美しさに感じることでしょう。 気分のいい人とゆっくりとした気分で桜を見ることができた。 いろいろな機会を誰かが骨を折ってつくってくれた。 そんなことをするためにあなたはいるのです。
|
039 | 死を思おう。
|
040 | 介護ではなく、福祉をしよう。
|
041 | 人だけが薬。
|
042 | コールする気持ちを考えよう。
|
043 | 怒りはSOSだと思おう。
|
044 | 死ぬとは着地だと思おう。
|
045 | 相手の命のファンになろう。
|
046 | ふつうは捨てよう。
|
047 | 本当はどうなのか本人に聞こう。
|
048 | 介護の壁は破らないのが正解。
|
049 | お年寄りにかなうわけがないと思おう。
|
050 | 苦しみの種類を分類しておこう。 お年寄りは苦しみを隠します。 がまん強かったり、言うだけ無駄だと感じていたり、その苦しみよりも大きな苦しみがあることなどがその理由です。 また、苦しむ表現そのものができないお年寄りも多いですし、苦しみの内容がご自分で把握しきれないくらい大きいという場合もあります。 高齢者は、高齢者ではない人に対して大きな壁を感じています。 その壁をとっぱらうことや、壁越しにいつも相手を見ておくことが高齢者ケアの本質とも言えます。 マヒの苦しさか、認知症の不安か、社会参加の欠如か、病苦や痛苦か、老いの不安か、生きていくことの悲しさか。 それぞれの表情の奥にある、苦しみの種類をしっかりと冷静に分析しておきましょう。
|
051 | お年寄りはいつもくたびれている。
|
052 | お年寄りを知るには、たくさんのお年寄りと会うしかない。
|
053 | 1に手助け、2に自立。
|
054 | 他人の介護を否定しない。
|
055 | 介護する方法よりも、介護する心を統一しよう。
|
056 | コミュニケーションは高齢者半分、スタッフ半分。 高齢者ケアはコミュニケーションが大事です。 それは言うまでもないことです。 しかしそれは、情報を統一するためのコミュニケーションではなく、心の統一のためのコミュニケーションをしてください。 そして、コミュニケーションの相手は「高齢者」が半分、「スタッフ」が半分です。 高齢者が第一に変わりありませんが、スタッフ間で心の統一がなされていないと、いい高齢者ケアの雰囲気にはなりません。スタッフ間でラポールを築くことはかなり重要な仕事の一部です。高齢者ケアは「業務」ではなく「社会の役割」。そのような使命を果たすためには単純な情報伝達の積み重ねだけではなく心をしっかりとコミュニケーションさせることが大事な基盤になります。
|
057 | ひどい人にならないでいよう。
|
058 | 束縛する人は高齢者には嫌われる。 一生懸命に相手の毎日のことを考える介護スタッフさんはたくさんいます。 相手のことをあまりに思うがゆえに、相手のことをしばってしまう介護スタッフさんもいます。
なんでよ! 威張んないでよ! なにがわかってんのよ!
人生最後の日々だというのに、束縛感のある生活なんて誰だってしたくないものです。 私の経験からすると、束縛感のある人が介護をすると高齢者の心はかたくなり暗くなります。束縛感がない人が介護をすると高齢者の心はゆったりしますが、それはそれでしまりがなくって言動が危なっかしくなります。 介護する人は「心の重石」でいるべきです。 自由は保証しつつも、自分まで自由にはならずに、しゃんとしておくと、高齢者も自由感を持ちつつ、気持ちや行動をしゃんとしてくれるものだと感じています。 自由過ぎるのはケガの元ですが、重過ぎるのは「空虚」の元です。 相手にとって必要なバランスの見極めが大事だと思います。
|
059 | 認知症は重病。 認知症は本当に大変な病気です。 痛みや発熱などはないのでついつい軽く受け止められがち。 忘れるということも身近にあることなのでユーモラスに受け取られることがあります。
でも、認知症は忘れる病気ではありません。 記憶に残せないという病気です。 または、記憶にあるのにそれを引き出せない病気です。 認知症ではない人が「ぼんやりして忘れてしまった」というのと、認知症の人が「思い出したくても思い出せない」はまったく違います。
そして、「忘れていて思い出せない」という症状以上にご本人の中には強烈な違和感があります。 それはまるで外国の見知らぬ町に置いてけぼりにあったような。 敵だらけの建物の最上階の一室に閉じ込められたような。 自分にとっておそらくとっても大事なものをまわりにいる誰かに奪われて、そのことを笑われているような。
その不安。 その孤独。 その焦り。
認知症の方の徘徊や暴言は異常なことではありません。 認知症状が自分の身に起こったことに対する正常な防御反応なんです。 認知症は忘れる病気ではありません。 目の前があり得ない世界に変わる病気です。
|
060 | ぶわーっとを感じよう。 認知症が進むと考えるスピードや精度が落ちてしまいます。 頭の中がぶわーっとしている状態。 それは、もやがかかったとか、たくさんの小さな虫が羽音をたてているとか、頭の中が灰をかぶったとか、人によって表現はさまざまです。 どんなに力をいれても考えが進みません。 考えることが重たくって、鈍くって、ゆっくりとしたスローモーションになってしまいます。
しかし、感情のスピードは変わりません。 だから、焦ります。 いつも不安で、不明で、おろおろしてしまいます。 そのやきもきした焦り。 それを理解してもらえない悲しみ。 いつまでもそれが続いてしまう孤独感。
自分の頭の中がいつもぶわーっとしていて、それが自分でもわかっているという恐ろしさをいつも理解してください。
そして認知症が進むと、感情のスピードもさらに遅くなっていきます。 感情がワンテンポ遅れてやってきたり、おかしな具合に居座ったりします。 認知症の方が、視点をうまくあわせることができずに、目をくるくるさせているようなときがありますが、そんなときは解決を急いだり、新しい情報をむやみに与えたりしないでください。 しばらくすると頭のなかの情報と感情が落ち着いてくると思いますので、そのときまで待ってあげてください。
|
061 | ぎゅうーっとを感じよう。 認知症になると自分の頭の回転がまわりのスピードに追いつかなくなります。
たとえば食事中。 目の前にいくつもの皿が並びます。 まわりには介護スタッフが行ったり来たりしています。 するといきなり誰かがそばに座って、スプーンで食事を食べさせようとします。 お茶が目の前に迫ってきます。 テレビがついて音楽や音声が盛んになっています。
認知症の方にとって「情報過多」は大きな負担になります。 それはきっとジェットコースターにいきなりのせられたような、もしくは、バンジージャンプに突然落とされたような、まるで把握が追いつかなくて風がびゅうびゅうと当たってくるというような状況です。 認知症は痛みがありません。 情報過多にも苦痛の表情は出てきません。 しかし、心には常にヒステリックな負担がかかり続けています。
それは泣きたくなるような不安の連続。 いつもそんな気持ちを抱えていることを理解していてください。
まわりがそのことを理解し、見えない苦痛を想像しきっていない以上、環境を変えることはできません。 テレビを消して情報を少なくする。 くるくると状況を変化させない。 見慣れたなじみの人がそばにいてくれる。 短い内容をゆっくり話す。 とにかく穏やかな時間の流れをつくることが一番大事なこと。 そのような環境を意識的につくってあげないと、いつまでも頭のなかにはぎゅーっとした意識の集中が多いかぶさってはなれることはありません。
|
062 | 認知症に理屈は毒。 認知症になると理屈は大敵です。 理屈を飲みこむことが難しいだけではなく、理解できないという違和感が「不安」として感情に残ってしまうからです。 認知症患者の方は、投げ掛けられた「理屈」に反応するのではなく、自分の中に生じた「不安」に反応します。 それは口の中にいきなりなにかが飛び込んでくるようなものです。そんなことがあったら誰でも「うえっ! ぺっ! ぺっ!」と、強い拒否とともに吐き出しますよね。理屈は、認知症患者の方にとって正体不明の異物に他なりません。
急な否定。 お説教。 一方的な説得。 せっかちな言葉。 そういったことは混乱や強い拒絶を生んで当然なのです。
認知症の周辺症状を起こすすべての原因は「正体が分からない不快」から生じる不安や恐怖です。 理屈はアレルギー反応のような結果を引き起こすだけです。 認知症患者の方に理屈で説き伏せようとすることは逆効果どころか悪影響しか残しません。
では、どのように必要なコミュニケーションを取るべきか。 理屈ではなく雰囲気で話してください。 認知症患者の方には雰囲気で道筋をつくってさしあげることが重要です。
|
063 | 認知症の心に積み木をしよう。 認知症になると思考は鈍くなります。 反対に、感情は鋭くなります。
感情は思考よりもはるかに早く、鮮やかに伝染します。 認知症患者の心には、目の前にいる人の表情がそのまま心に残ってしまいます。理屈抜きに、感情的な印象がどんどん刻み込まれます。笑顔も、悲しい顔も、そのまま積み木のように積まれていき、それがその方の心そのものになっていきます。 目の前の人がどんな表情か。 目の前の人がどんな雰囲気か。 目の前の人がどんな声や話し方か。 本人の意志とは関係なく、目の前の人の様子で認知症患者さんの心は決められていってしまいます。
しかしそれは認知症患者さんに残っている能力とも言えます。 それは「心」という能力をです。
その残された聖域をいい状態に保つために、いい気分を心に積み重ねていく「心づくり」こそが認知症ケアなのです。
|
064 | 認知症には鏡になろう。 暴言、暴力、徘徊、興奮……。 食べたことを忘れてしまう、盗まれたと思いんでしまう、自宅にいるのに家に帰ると言う……。
認知症ケアで困ることはその周辺症状ですが、さらに問題を大きくしてしまうのはその「心」です。 「なにっ!? そんなわけないだろう!」 「この野郎!? またそうやって騙そうとしやがって!」 良かれと思って対応していても、相手の心が思わぬ方向に進みはじめるとなかなかコントロールができなくなります。 対応する人が焦ったり、必死になればなるほど心はこじれます。
しかし、認知症の心は、理解してしまえば本当にわかりやすいものです。 快と不快のスイッッチがどこにあるのかを把握さえすれば、コントロールもしてあげやすくなります。
まず、スイッチを探しながら笑っていてください。 余裕たっぷりに頼りがいのある笑顔でいてください。 その笑顔がそのまま鏡みたいに写ってくれるのが認知症です。安心感たっぷりの笑顔でいて、あなたのことなんて別に見ていませんよ〜というような何気なさで対応してあげてください。
悲しい顔ももちろん見せないでください。 泣きたければ陰で泣いてください。 対応する人のネガティブな表情は不安として心に刻まれてしまいます。もし認知症の方の目の前で涙がこらえられなくなっても、がまんするか、もしくは笑いながら泣いてください。
|
065 | 認知症には顔で話し、声で話す。 認知症の方に対する、顔色と声色は十分に研究してください。 認知症の心は対応する人の「顔つき」で決まります。顔つきは言葉だと思ってください。「右」という顔をすれば、認知症の心は「右」を向きます。「左」という顔をすれば「左」に引っ張られます。
結論だけ言うと、使用する顔つきは「笑顔」しかありません。 「怒り顔」「心配顔」「悲しい顔」は、やるだけその顔つきを伝染させてしまうだけです。
にっこ〜りとしていてください。 私の人生にもあなたの人生にも、な〜んにも心配事がなくて良かったね〜、という顔をしていてください。 温かいしまりのない顔つきで、ゆっく〜り、おだやか〜に、満足げ〜な表情をしていると、口ぶりもそうなってきます。相手が興奮しても、包み込むような口ぶりをくり返せば認知症の興奮は徐々に和らぎます。 「ははは〜、だあ〜いじょうぶですよお〜」 まるで何ごともなかったかのような表情と声つきを続けることです。 そうやって認知症の心にある悪い感情をねじ伏せてあげてください。
認知症ケアは、相手の心の「不安、心配、恐怖、絶望」を取り除くためのアクションのくり返しです。 その表情や声は、もちろん本心ではなくていいんです。 本人の心をいい方向に向かわせて、いい状態を保つための責任をまっとうしてください。
|
066 | 認知症だからこそ自己紹介しよう。 認知症になると人の名前を覚えるのがとても難しくなります。 これを記銘力の低下といいます。 でも、だからといって礼儀やマナーまで忘れているわけではありません。はじめての人が来て、自己紹介もされず、相手のペースでいろいろなことをすすめられては、本人にとって混乱の元ですし、情けない思いをさせてしまいます。 認知症でもきちんと自己紹介することが基本。 相手の様子を確認しながら自分が何者であるかをいつも伝えましょう。
相手の表情が固いときやこわばっているときがあります。 そんなときは一度、やっていることを中断して、そばに座り、「あれ、調子が悪いですかあ? ○○(自分の名前)ですが、大丈夫ですかかあ? このまま○○を続けてもいいですかあ?」などと自分のことや自分がやっていることを伝えます。それによって表情が安心して、身体の緊張もほぐれることがあります。
そもそも、高齢者とは「名前」でつき合うことが基本です。名前でつき合えば社会人同士になるからです。 日頃から名前を呼び、自分の名前を告げてください。 社会人の心がある人は身体や脳の機能が老いても、存在までは老いません。自分の存在が老いぼれたと思ってしまっては老化は進む一方です。認知症は、しょんぼり感やがっかり感で進行します。逆に、社会人として扱われれば、その瞬間だけでも気持ちが社会に向いて、気持ちにハリがうまれます。社会人感がなくなると、自分がふわふわした存在に感じて、認知症のぶわーっとした不安を大きくしてしまいます。
|
067 | 散歩して少しくたびれよう。 「憂さ」は認知症の不快原因です。 憂さはためないでください。 憂さは晴らしてあげてください。
一番いいのは散歩です。 20分以上の散歩をする。 20人以上の人とすれ違う。 ああ、私は世の中にいるのだな、という実感が心に安心感を定着させますし、身体がほぐれて、身体があたたまることで、心身ともにリラックスすることができます。
身体を動かす。 人と会う。 世の中に身を置く。 笑う。 話す。
これらは何気ないことのようですが、それがないことは「なんだか気持ちが悪い不都合なこと」です。 散歩することはさまざまな不快原因を解消するとてもいい方法でなのです。
|
068 | 歌って少しくたびれよう。 「さあ、みんなで大きな声で歌いましょう〜!」 と前置きして歌うのも悪くはありません。
でも、もっと自然に歌う方法があります。
「は〜るの〜うら〜ら〜の〜……」 と急に歌いはじめるんです。 相手の目を見て穏やかな表情でこちらが歌えば、相手はすっと歌いはじめます。 知らず知らずに口が開き、心も開いてくれます。 そんな歌は心にいい風を吹かせてくれます。
歌の会はとても人気があるコンテンツですが、歌の会に積極的な人は比較的しっかり歌える人だと思います。 しかし、お年寄りの中にはゆっくりしか歌えない人もいます。 そういった人はそもそも発語もなかなか難しい人ですが、慣れ親しんだ童謡などは発声できるせっかくのチャンスです。なので、一対一でゆっくりと一緒に歌ったり、映像などを見ながら一緒に口ずさんだりすることで歌う機会をつくってあげてください。
|
069 | おしゃべりして少しくたびれよう。 体力的、機能的に、できることが限られてくるお年寄りにとって、「散歩、歌、おしゃべり」は重要です。 これほどシンプルな能力で、複雑な効果を期待できることはなかなかありません。 命を育み、体力を維持する重要な営みだと考えて重要視してください。
身体のエネルギーをほどよく消費すること。 新鮮な自然に触れ、心身ともに風通しを良くすること。 認知症状があればなおのこと重要視するべきです。
しかし、多くの高齢者にとって、散歩も歌も、若い頃と比べるとそこそこ負担のかかる作業です。おしゃべりに頭を使うことや、言葉を発声することだって、高齢者にとってはそれなりの運動です。 簡単なことなのになかなかうまくできないという葛藤や悔しさを感じる原因にもなります。
そこは観察力と想像力をうまく使い、その日の様子にフィットした内容をうまくセッティングしてあげてください。
|
070 | 起こってしまうことは知っておこう。
|
071 | 絶対にしてはいけないことを知っておこう。 絶対に顔に出さない。 絶対に声をあげない。 絶対に正さない。
|