2011 年より高齢者向け訪問教室「来てくれる教室」をスタート。現在で は「生きる力がわく頭と体とこころの体操」をメインにした教室を、特養、 老健、有料老人ホーム、認知症グループホーム、重症心身障害児(者)施設、 および、地域向け交流サロンなどで開催している。各施設を月に1回〜 2回訪問し、年間では合計400教室以上をおこなっている。1972年福岡うまれ。
老人ホームにこんな教室があったなら…!! そんな教室を実際に作ってしまった介護士が毎日押している心のスイッチ。
【もくじ】
まえがき
第1章 お年寄りと「接する」ときに押したい心のスイッチ
第2章 お年寄りと「会話する」ときに押したい心のスイッチ
1 季節を盛り込む。
2 過去の話をする。
3 未来の話をする。
4 世界を広げる。
5 家族の話をする。
6 低い声でゆっくりはっきり朗らかに話す。
7 どんなときでも口元には笑みを浮かべる。
8 会話の質を高める。
9 いい話をする。
10 心に向かって話す。
第3章 お年寄りの「暮らしや環境」の中に置いておきたい心のスイッチ
1 手が届くようにする。
2 過去や未来を見えるようにする。
3 予定や習慣をつくる。
4 健康についての話をする。
5 死についての話をする。
6 認知症状についての話をする。
7 頼れる人になる。
8 頼みやすい人になる。
9 元気のいい姿を見せる。
10 鏡になる。
第4章 お年寄りの「生きる気持ち」が前を向くための心のスイッチ
1 責任を持ってもらう。
2 望みは叶える。
3 約束をする。
4 ずっといると伝える。
5 会いに行く。
6 本人に聞く。
7 支配しない。
8 1に手助け、2に自立。
9 励ましに始まり、励ましに終わる。
10 心の温度を温める。
第5章 高齢者ケアをする人のための心のスイッチ
1 介護ではなく福祉をする。
2 老いとは不治の病だと考える。
3 いちばん大変なのは本人だと考える。
4 お年寄りにはかなうわけがないと考える。
5 こちらの「ふつう」は捨てる。
6 高齢者という服を着ていると思う。
7 怒りはSOSと思う。
8 今日一日を特別な一日だと思う。
9 単なるお手伝いにならない。
10 高齢者ケアは長いホスピスだと考える。
あとがき
【本文の一部掲載】
|
お年寄りの笑顔のためのほんのちょっぴり長いまえがき
想像してみてください。
あなたはいよいよ老いを迎えました。
その時、どんな心境ですか?
こうなったのなら、今後はこうしていたい……。
こうなったのなら、これからはこうありたい……。
こうなったのなら、できる限りつらい思いも情けない思いもしたくない……。
自分の人生が終わっていくことを感じた心の底には、いろいろな思いが渦巻くことでしょう。その時、これまで生きてきた中ではあまり感じることがなかった考えが、心に浮かんでいるかもしれません。
どうやら老いを迎えた人の「ふつう」って、そうではない人の「ふつう」とはちょっと違うようです。だからこそ、まずはその違いを知って、お年寄りの「ふつう」を基準にした高齢者ケアをすればいい。これがいちばんシンプルな結論じゃないかと私は思っています。
そして今回、みなさんに手に取っていただいたこの本は、お年寄りの「ふつう」を基準にした高齢者ケアの方法をまとめた本です。題して、「お年寄りを笑顔にする50のスイッチ」と申します。
※
私は、高齢者と高齢者ケアを取材しているフリーランスライターです。2011年の春から、独自の取材スタイルで「人生の最後の時間を生きるみなさんの声」を集めはじめました。
その取材をしていく中で、高齢者ケアを実践する方々ともたくさん出会ってきました。中には、上手に高齢者ケアをする人もいましたし、逆にお年寄りをケアすることが苦手でうまくいかない人もいました。また、いろいろな施設やいろいろなご家族とも広くお付き合いさせていただきました。そのようにして、できる限り高齢者ケアの全体像をとらえられるよう取材を続けてきました。
さらに、私自身も夜勤専任介護士として有料老人ホームで3年間勤務し、それ以外にも高齢者向け移動教室「来てくれる教室」という場づくり活動を立ち上げて、継続してきました。
現在の取材のメインはその「来てくれる教室」です。
訪問させていただく施設は年々増え、今では東京と神奈川あわせて13カ所に増えました。(2015年12月現在。基本的に月2回ずつ訪問。1回の訪問につき1〜3教室)。年間では360教室ほど開催していますので、平均すると、ほぼ毎日どこかで10人前後のお年寄りとおしゃべりをして、密に接する時間作りや場作りをしているということになります。
これまでに知り合ったお年寄りは500人以上。そのうち10人にひとりはすでにお年寄りとしての暮らしを終えて旅立たれています。
そんなお年寄りのための教室の先生役として。
夜勤専任の介護スタッフとして。
もちろん介護ライターとして。
または、ごく自然な一友人や、いま生きている同じ人間同士として。
私はこれまでさまざまな立場からお年寄りの心を見つめてきました。
いろいろな言葉を交わし、いっしょに泣いたり笑ったりしながら時間を積み重ね、できるだけ自然で、できるだけ人間らしい時間を過ごしてきました。そうしながら私は、お年寄りの「ふつう」についてずっと考えてきました。
※
さて、みなさん。
お年寄りの「ふつう」って一体なんでしょう?
また、介護や、医療や、家族や、地域や、制度が押しつけてしまいがちな「ふつう」って一体なんでしょう?
それについて以前、こんなことがありました。
私が夜勤専任介護士の仕事をはじめてすぐの頃のことです。私が、あるご高齢の方の夕食のお手伝いをしていると、その方が急に、
「……コーラが飲みたい」
とおっしゃいました。
とてもはっきりとした口ぶりです。でもその方は日頃、「痛い……、苦しい……!」と叫び声をあげていることがほとんどだったので、私はびっくりするとともに心が和むようなうれしい気持ちにもなりました。
「コーラですか。うーん、あとで相談してみましょう!」
私は前向きな感じでそう返事してみました。
年齢はもうすぐ100歳です。お体的にはコーラを飲んでも特に問題ありません。でも日中は車いすなので、誰かが押して手伝わない限り、コーラを飲むどころか買うことさえできません。そんな方が「コーラが飲みたい」とはっきりおっしゃってくれたんです。ともかくこれは、ちょっとしたうれしい事件です。よしよしコーラくらい、あとで担当介護士に相談すればきっと大丈夫だろう。私はそう思い、こう言葉をかけたんです。
「いいですね! コーラ、きっと飲めますよ!」
すると、その直後のことです。私のすぐうしろにいた先輩介護士が、私の肩をぐいっと引っ張ってこう言いました。
「ねえ、ちょっと! できるかどうか分からない約束なんてしないでくださいよっ! 個人的な判断でそんなこと言えませんから!」
かなりの剣幕でした。
ご本人がそばで聞いていようがお構いなしです。
「お金だってどうするんですか? ご家族や看護の確認だって必要だし、ケアマネもなんて言うか分かりませんよ。施設ケアはチームケアですから、あなたの一存では何もできません!」
私は最初、この先輩は何か勘違いしているのではないかと思ったんです。でも、どうやら先輩は本気で言葉通りのことを言っています。私は段々そんな言い方はないんじゃないかと感じはじめました。
「ええ〜! いやいや、それはそうですけど、……でもまあ、コーラを一口か二口か飲んでもらうくらいのことですから」
私が精一杯こう言うのを、さらに遮るように先輩は言います。
「あのねえ、もし仮に、自分勝手にケアプラン以外のことをしたら入居者様に対する暴力と同じですよ……!」
重苦しい雰囲気を残して、話はそこで終わりました。
コーラが暴力……。
私はその言葉を聞くと、その場でしばらく思考が止まったようになってしまいました。
※
さて、みなさんは、この先輩をどんな人だと思いますか?
ひょっとしたら、頭が固くて心の冷たい人と感じたかもしれません。お年寄りの「ふつう」の気持ちをこれっぽっちも理解しようとしない人と感じたかもしれません。しかし、介護経験のある人や介護従事者は、この先輩にもそれなりに言い分はあるだろうと感じることでしょう。むしろ、高齢者ケアの「ふつう」を責任強く守ろうとしている人と受け取ったかもしれません。
では、この短い間に先輩がどう思ったのか。その一部を、ここに書き出してみます。
飲みたいはいいけれど、コーラでもし何かが起きたらどうする……?
飲み慣れない炭酸飲料のせいでむせ込んだり、それが原因で誤嚥性肺炎にでもなったらどうする……?
それが原因で高熱で苦しんだらどうする……?
それが原因で亡くなってしまったらどうする……?
万全を期してコーラを飲むにしても、それはどうやればいい……?
飲むとなれば経過観察が絶対に必要だが、そんなことに対応できるマンパワーがない……。
そもそもコーラを飲むことの確認、計画、予算などはどうする……?
それを考えているヒマはないし、話し合う機会もつくれない。なぜならもっと優先して解決するべき問題がすでに山積しているから……。
とにかく「いまコーラを飲みたい。ハイ、さあどうぞ」なんて単純な話じゃない……。
いや、まあ、もちろん、いまこっそり飲んでもらったとしても、特に何も起きないだろう。望みが叶うならば、それもいいかもしれない。いやでも、むせ防止のトロミは絶対に必要だ。そんなコーラ、飲んだっておいしくはないだろうな……。
いやいや、やっぱりどう考えても無理だ。仮に飲んでいただいたとしても、それを知ったご家族が難色を示すかもしれないし、クレームに発展してしまうかもしれない……。
ここはやはり現場の介護スタッフがいろいろ考えるより、看護やケアマネに判断を委ねてコンセンサスをとってもらった方が無難だろう……。
そもそもコーラなんて厄介な問題しか生まないんだから、そんな余計なこといちいち考えない方がいいかもな……。
しかも、今回の言い分を聞いたら、次も聞かないといけなくなるかもしれない。これ以上、細かい作業を増やしたらそれこそ事故の元だし……。
いやそれどころか、隣の席の入居者にも同じことを言われてしまうかもしれない……。
その人がそもそもコーラが飲めない人だったら気の毒だし、不公平だとクレームになるかもしれない……。
そもそもこの発言は、このお年寄りにとってそれほど重要なことなんだろうか……?
わざわざ施設ケアの中でくみ取るだけの必要性があるのだろうか……?
先輩が考えたことはざっとこんなことかもしれません。このように、コーラを飲むだけでいくらでもチェック項目が出てきます。
これはもちろんコーラに限った話ではありません。一日に何度もトイレに行きたい、好きな時に散歩したい、お風呂に入りたい、家族に連絡したい、食事は刻まないでほしい、ぬるい味噌汁を温めなおしたい、朝はゆっくり寝ていたい、自由な気持ちで暮らしたい……。お年寄りの心にどんな思いが湧き上がったとしても、ケアする側はいつも「その先の状況」を考えないといけません。すると、多くの場合、「これはまあ、無理そうだね……」という結論になってしまう。
どうしてこんなことが起こるのか?
もちろんそれは、ケアする側に、「お年寄りを傷つけてはいけない。命を守らなくてはいけない。一人ひとりだけではなく全体も見なくてはいけない」という「ふつう」があるからです。
その「ふつう」がある以上、「コーラですか。きっと大丈夫ですよ」なんて言葉は、簡単にはその場にはそぐわなくなる。たとえ人間的な感情から自然にそう感じたとしても、そんな言葉はおいそれと口には出せなくなってしまうのです。
もちろん、そのことを理解できます。
なくてはならない大事な「ふつう」に違いありません。
でも、だからといって、お年寄りの思いをいとも簡単にかき消してしまって、結局「できなくてもしょうがない」で終わってしまうことが「ふつう」であってはならないはずなんです。
※
しかし私は、お年寄りの思いは常に何よりも優先されるべきだ、と言いたいわけではありません。
そのことは、お年寄りご本人にだって、もちろん理解できるんです。
(私が老いてしまったから、できないことがあってもしかたがない……)
これは分かるんです。でも問題はその先です。
(いや分かるんだけど、どうして? なんでそこで話が終わってしまうの? それに、なんでそんなに管理されて、厳しい態度で言われて、怒られたりしなくてはならないの? じゃあ私のコーラを飲みたい気持ちは一体どうすればいいの? この残念な気持ちはどこにぶつければいいの? この悲しい感じは一体どうすればいいの……?)
お年寄りのそんな表情を見て、
「よしじゃあ、今からコーラ買って一口飲んでもらおう。看護チーム、大丈夫だよね? 介護チーム、一応家族にも連絡しておいて!」
と即決してくれる人もいなければ、その言葉を実現しようとする人が一人もいない。
「すみません! ご家族と看護師にすぐ確認とってみますからもうちょっと待っててください。◯◯さん、コーラすぐに飲めるといいですね……!」
と同じ立場に立って残念がってくれたり、謝ってくれる人もなかなか現れない。このすれ違いは、お年寄りの心を痛めます。しかし高齢者ケアの「ふつう」の中では、その痛みは「仕方がない痛み」とされてしまうんですね。でも、心に痛みを与えたまま終わりでは、それこそ「暴力」と同じなんです。
私は、毎日毎日、腹が立って腹が立って仕方がありませんでした。
身のまわりにこんなことが起こるたびに、ここはお年寄りのなんのための場所だと強く疑問を感じました。
……どうしてこのことが大問題にならないんだろう?
……みんな、しょうがないという空気のまま過ごしてしまってるけどなんで悔しくないんだろうか?
……そこで終わるのが福祉なんだろうか?
いや、もちろんそれでは意味がありませんよ。
そんな福祉は、高齢者の「生きる力」をただ奪うだけですから。
そうなんです。私が自分の取材や活動を通じて言いたいことはこの一点に尽きるかもしれません。高齢者の「生きる力」を奪う介護や医療をしていては、何の意味もないんです。
そしてさらに私は、いろいろな経験を重ねました。
いろいろな人とも意見をぶつけ合い、お年寄りの言葉にもたびたび耳を傾けました。やがてその結果、こんな風に考えるようになったんです。
……結局、お年寄りの「ふつう」と高齢者ケアの「ふつう」はすれ違ってばかりいる。このままだったら、お年寄りは「ふつう」のことを「ふつう」に叶えることができない。だったら、こうしてみてはどうだろう。できない「ふつう」を考えても仕方がないから、できる「ふつう」を実現してみたらどうだろうか……。
私はそう思い立って、勤めている施設とは別の施設で、お年寄りの将棋の相手をするボランティアを始めました。
そんな悔しい気持ちから将棋ボランティアをはじめたので、その場で思いついたことやできることは可能な限り実践しました。するとちょっとした変化が生まれました。将棋のボランティアに行くたびに、そのフロアのみんなで集まっておしゃべりの会をすることがいつもの恒例になったんです。しかもありがたいことに、その内容や考えを施設側にも気に入っていただいて、レクレーションとしてお給料もいただけるようにもなりました。その資金で別のところでも会を始めました。そうやって、次の施設、また次の施設と活動が広がっていきました。それが、まえがきの前半でもすこしふれた「来てくれる教室」という活動の始まりです。
そして私は、やればやるほど必要とされていることに気づかされました。
衣食住のことは足りていても、衣食住だけでは人間は幸せに暮らしていけません。高齢者ケアの中の解決では、お年寄りのすべての解決にはならないんです。お年寄りが人間らしい幸福感の中で過ごしていくためには、自分の心の「ふつう」を自由に発散させる場や時間がもっと必要なんです。
だから私がつくっている場は、お年寄りのための「特別枠」だと私は考えています。
ここではどうぞ心を自由に解放してください。
私はみなさんをケアしません。
管理もしません。
対等な社会人同士です。
私は、そんなつながりを高齢者の生活の中につくろうと考えました。そんな「ふつう」を取り戻すことが、施設ケアの中で暮らすお年寄りにとっていちばんの「生きる力」につながると確信したからです。
※
私は場づくりを続けました。
東京の都心にも教室を作りました。
神奈川の田んぼや自然に囲まれた地域でも教室を作りました。
暮らしぶりの異なる様々な地域で教室を作り、訪問する施設の種類も増やしました。認知症グループホーム、特養、老健、有料老人ホームにそれぞれ通い、さらにはご自宅に住んでいる中高年向けのサロンもはじめました。いろいろな地域で、いろいろなパターンのお年寄りを継続的に眺めていくと、お年寄りの「ふつう」がどんなものか、私にはもう少しはっきりと見えてきました。
それはおそらく、こんな「ふつう」です。
ふつうに平凡に生きていたい。
ふつうの社会人として存在していたい。
ふつうに季節や自然にふれていたい。
ふつうに穏やかな人間の感情にふれていたい。
ふつうのお年寄りとして幸せに生きていたい。
ふつうのお年寄りとして幸せに死んでいきたい。
そうなんです。結局のところ、お年寄りの「ふつう」って、ふつうの社会人がふつうに感じる「ふつう」と基本的には変わらないんですよね。
しかしもちろん、お年寄りの心の中には、「老いたこと」「生きること」「死ぬこと」への不安がどーんと大きく居座っています。そんな不安をできるかぎり踏まえながら、さまざまな「ふつう」を体験してもらうことが私の教室の目標です。その「ふつう」をすることで、お年寄りは人間らしさを取り戻します。不安に向き合う新しい考えや気持ちを持てるようになります。
そして私はそのたびに、お年寄りの心の中のスイッチを押しているんです。
社会人としての気持ちをわき起こさせるスイッチ。
閉鎖的な生活空間に季節感を取り戻すスイッチ。
悲観的な未来に明るさを取り戻すスイッチ。
いまの自分の生活に満足や安心を感じるスイッチ。
そして、お年寄りの最大の関心事である「生きる不安、死への不安」を取り除くためのスイッチ。
「私は幸せに生きていていいんだ」と思うことができるスイッチ。
「私は幸せに死んでいっていいんだ」と思うことができるスイッチ。
お年寄りの毎日は「あなたのふつうは日々奪われていきますよ」という毎日です。しかし、私のレクレーションでは「あなたのふつうはまだ失われていませんよ」を体感してもらっています。もちろん現実的には、すでに失われた「ふつう」もあるし、失われていくだろう「ふつう」もある。そこに必要なのは何かと言うと、その整理なんですよね。その整理をうまくする助けをすればお年寄りはきちんとその場で幸せに暮らしていくことができる。不要な混乱も避けることができるし、不安も駆り立てなくてすむ。なによりもお年寄り本人が、自分で自分をつかむことができるんです。
私はそんな考えで、教室をどんどん開催しました。
高齢者ケアも取材もその考えを大事にしてお年寄りと接するようにしました。
あちらこちらで、毎日毎日、お年寄りの心の中のスイッチを押しました。
すると、さらに変化が生まれました。
表情の硬かったお年寄りも、しょんぼりとして輝きのなかった暮らしぶりも、少しずつ笑顔や明るさを取り戻していったんです。
夜、なかなか眠れなかったお年寄りが安心して朝までぐっすり眠るようになりました。座ってうつむいてばかりいたお年寄りが言葉の数や表情の豊かさを取り戻しました。スタッフの名前を覚えられなかったお年寄りも私の名前なら覚えてくれました。そういった変化を目の当たりにしたケアスタッフさんは「このお年寄りはもっとできるんだ」と発見し、自分たちが思い込んでしまっている「ふつう」に疑問を持つようになりました。
こうやって、老人ホームのフロアには多くの笑顔がうまれました。
その笑顔は、たのしい笑顔ではありません。
うれしい笑顔です。
高齢者ケアに必要な笑顔は第一に「うれしい」からこぼれ出てくる笑顔です。
その「うれしい笑顔」はもちろん、接する私に特別な個性や感情があったからではなく、ただお年寄りの「ふつう」に合わせる態度でいたからだと思うのです。そんな態度そのものがお年寄りの心の「生きる力」につながるスイッチだったと思うのです。
※
私はこの本で、専門的な介護スタッフにも、専門知識に乏しいご家族のみんさんにもうまく活用してもらえるような高齢者の心のスイッチの押し方をお伝えしようと思っています。
そのスイッチはすべてお年寄りの「ふつう」を基準にしていて、そして必ず「うれしい笑顔」につながるスイッチです。この本を読んでいただいたみなさんの高齢者ケアが、ただの「介護作業」ではなくて、お年寄りの心のスイッチを押すためのアクションになることを私は心から願っています。
また、私はこの本をお年寄りにも読んでいただきたいと思っています。なぜなら多くのお年寄りはケアする側の「ふつう」に自分から合わせてしまっているからです。もっとこんなふうに手助けをしてもらえれば元気を出すことができる、ということをお年寄り自身にも気づいていただきたいし、それを伝えるための言葉を知って欲しいと思っています。
意味がある高齢者ケア。
おたがい様の気持ちで支え合う福祉。
介護する側がつらい気持ちにならない介護。
この本がそのための一助になればこれ以上にない幸いです。
2015年12月 高齢者のための移動教室「来てくれる教室」 富永幸二郎
|
▲ 上にもどる ▲
1 名前を呼ぶ。
私がお年寄りと出会ったら、まずこんなことを確認します。
幸せそうか。
幸せそうではないか。
さて、あなたの目の前にいるお年寄りは幸せそうに暮らしていますか?
もちろんそれは、あなたの幸せの基準ではありませんよ。お年寄りご本人が幸せを感じているかどうかです。中には、「ここまでやってあげてるんだから、幸せだって思っててもらわないと困るわ!」なんて感じている方もいるかもしれませんが。(笑)
でも、幸せかどうかなんて雲をつかむようなことかもしれません。もし「幸せがどうか」が分からなかった場合、「不安がないかどうか」と置き換えて考えてみてください。
お年寄りの不安はそれぞれです。
障害、病苦、認知症状、これからの生活や変化への不安……。それが整理ができないくらいに重なってしまい、大きく重たくなってしまっては、お年寄りは生きていく意欲を持ちにくくなり、幸せな気持ちでも暮らしていけなくなります。
私の教室では、その不安を打ち消すスイッチをどんどん押し続けています。その具体的な方法は、これからこの本でたくさん紹介していきますが、まず大事なことは、「私はこの場の一員なんだ」と感じてもらうことです。この場とは、社会であり、教室であり、それぞれのコミュニティーであり、それぞれの家族です。
あなたはここの一員です。私もここの一員です。私はあなたの味方で、ここにいるのはみんな仲間で、困っていることがあったらきっとみんな助けてくれますよ。
このメッセージをしっかりと送り続けることです。
そうするために私がこだわってやっていることがあります。
それは「名前」を呼ぶことです。
用事があるときだけではなく、あいさつのときやみんなと話しているとき、いかなる場面でも相手の名前を呼びます。
「〇〇さん、こないだこんなことがあったんですよ〜!」
こんなふうにわざわざ名指しで話しかけるんです。一回でも多く、いろいろなタイミングで名前を呼びかけ続けると、「あなたは大切な仲間です、あなたのことはいつも気にかけていますよ」という思いがじんわりと伝わるんですよね。
それと同時に、私の名前も告げます。
「〇〇さん、横浜から来た富永です。また遊びに来ましたよ」
相手の正面から、相手の目を見て、時間もたっぷりとかけてあいさつをします。一人ひとりにあいさつして自分の名前を明らかにします。しかし、ケアスタッフさんの中には、
「名前なんてどうせ覚えてもらえないし、覚えられて用事を増やされても困るし」
なんて言う人もいます(笑)。
でも、名前を告げないことは逃げているって感じさせてしまいますからね。だから、覚えようが覚えまいが関係ないんです。あなたと私、一対一の関係をはっきりさせることで、「この人は私と積極的に関係を持ってくれようとしている」と安心感を持ってもらえるんですよね。
老いって解決ができない問題がたくさん増えることなんです。だからお年寄りは途方に暮れてしまいます。不安は重圧になって、心の主電源まで下ろしてしまいます。
そうなる前に、
「あなたも私もこの場の一員ですよ。これからもずっとそうですよ」
という気持ちを込めて名前を呼んでください。
名前を呼ぶだけでそれは心のスイッチになります。それは、「私はあなたを助けます」と宣言するようなものですからね。
|
▲ 上にもどる ▲
2 社会人として接する。
前の項の最後あたりに「心の主電源」と書きました。
人間の心はいつもブレーカーが上がった状態じゃないといけません。
家だってそうですよね。例えばアパートを借りるときだって、部屋を下見しているのに部屋の電気がつかなくて、慌てて不動産屋さんがブレーカーをあげたりすることもあります。アパートの場合なら、使っていない期間はブレーカーを切っておくのはわかりますが、人間の心はいつでもブレーカーはあがっていないといけません。
ブレーカーが下りた状態だと、どんなに小さなスイッチを入れてもオンにはなりません。では、ブレーカーを下ろした心ってどんな心でしょう?
それはきっと「社会人であることをオフにしている」という心だと思います。
年を取ると世界が狭くなります。社会からは一歩遠ざかり、人との交流も希薄になります。さらに施設ケアの中で暮らすとなると、まわりはすべて自分をケアする人になってしまいます。その状況では、自分のことをふつうの一社会人として感じにくくなってしまうんです。
ある施設で暮らしているお年寄りがこんなことをぼそっと言うんです。
「……私はここでなにをして生きているんだろう?」
そんな時、本当に置いてけぼりにあったような、なんとも言えない「心許ない」表情をするわけです。
しかし反対に、いつも生き生きとしているお年寄りもいます。いつでも、「よし何をしよう、よしこれでいこう」と視線の先に何かが見えている表情。言うならば「心許ある」表情をしているお年寄り。
その違いってなんだろうって観察していると、それはやっぱり、生きる場がきちんとあるかどうか、もしくは、社会とのつながりが保てているかどうかの違いなんですよね。
自分が社会人であること。
その感覚がなくなってしまうと人間は「生きる力」の基盤を失うし、「生きる心」さえも失ってしまいます。
私は「高齢者向け移動教室」をやっていますが、楽しんでもらうことや頭の体操が第一の目的だとは思っていません。いちばん大切にしている目的は「場」をつくることです。場とは、自分が、自分として生きていく場です。ただ世話をされるだけの自分ではなく、ひとりの社会人として人と接し接せられる場。そんな場があれば、心は踊り出すんです。心が動けば体や頭だって働き始めるんです。
「◯◯さん、いつまでも社会人でいてくださいね」
こんな言葉だって、スイッチになります。
もしくは、「奥さま」と呼んだり、「ご主人」と呼んだりします。100歳過ぎていても、「ねえちょっと、奥さま〜!」でいいんです(笑)。
まわりから「社会人」として接せられれば、お年寄りはいつまでも「お年寄り」にならなくて済みます。それにはまずケアする側が、目の前のお年寄りを立派な社会人のひとりとして意識することが大切だと私は思っています。
|
▲ 上にもどる ▲
3 特別あつかいする。
お年寄りは第一に「社会人」です。
そして、第二に「お年寄り」です。
まずは社会人として対等に接することが大事で、次に、お年寄りとして特別に接することも忘れてはいけません。なんだか矛盾しているようでややこしいですね。
でも、あなたが風邪をひいたときのことを思い出してください。
ひさしぶりに風邪をひいてしまって、のども痛いし、熱も38度近くからなかなか下がらない。ベッドで寝ていても体は熱い。胸はむかむかするし関節はきしむ。一人暮らしだから食事もままならない。どうにか病院だけは行ったけど、明日までには風邪を治して職場や学校に復帰しないといけない。そんなふうに苦しんでいるときに限って、
「風邪くらいで会社休まないでよ!」
なんて誰かに言われたりすると、誰だってがっくりきますよね(笑)。そんな時にそんなことを言われると悲しいし、つらいし、悔しいものです。
やっぱり忘れてはならないのは、ただのお年寄りなんて一人もいないということだと思うんですよね。お年寄りって、かならず何か抱えていらっしゃいます。
いつも痛みがある……。
不自由な身体が苦しい……。
弱った身体で生きていくことが不安……。
悲しみを抱えたまま終わっていくことが悲しい……。
それはもちろん、しばらくすれば治る風邪くらいのことではないんです。特に施設に入居しているお年寄りはやむを得ない理由があってそこにいるわけですから、いつだって何かしら不安なことを抱えています。しかもそれは、ひとつやふたつではない。その不安の重なりを常に意識していないと、ついつい、
「◯◯さあん、それくらい大丈夫ですよ〜!」
「△△さんはもっと大変ですから、◯◯さんはもっとがんばって!」
なんて言葉をかけてしまって、お年寄りの心を深く傷つけてしまったりします。まえがきにも書いたように、こちらの「ふつう」で考えて、相手の「ふつう」を考えきれていないと、そんな失敗をしてしまいます。
本人にとっては自分の痛みがすべてです。
痛ければ痛いし、初めてであればつらい。不安であれば慰めてもらいたいんです。症状が重いかどうかではなく、症状があればつらいんです。他の誰かと比較してどうかでもないんですよね。
お年寄りは誰でも「痛み」、「悲しみ」、「不安」を持っています。
だからこそ、お年寄りはいつでも特別なんです。
そんなふうにいつも考えていて、その考えが態度や接し方でお年寄りに伝われば、それはお年寄りにとって心のスイッチになります。薬にだってなりますし、栄養にだってなるでしょう。すると、お年寄りの心の中に、「がんばろう」という思いが湧き上がってくれるものです。
|
▲ 上にもどる ▲
まわりにいる人を「社会死」させないためのちょっぴり長いあとがき
こんな話をよく聞きます。
家で暮らしているお年寄りの元に介護認定をするための調査員が来たら、それまではぼんやりしていたお年寄りが急にシャキッとして受け答えしてしまい、それを見たご家族がびっくりした……、というような話。
社会人として見事に生き返るんですよね。
いや、生き返るというよりも、その力は元々あるんです。態度や言動でその能力を発揮する機会がないがために、社会人として休眠状態になってしまっているだけなんですよね。社会人として生きるということは人間活動そのものです。人は誰でも、社会や世界にふれ続けていないと人間としての大事な部分が死んでしまうんです。
社会からの距離が遠ざかると、社会人として「休眠状態」になります。
さらには、社会人として「仮死状態」になります。
やがて、「社会死」してしまいます。
社会死とは「人間死」のことです。
深刻な老いの問題の多くは、その先にあるんじゃないでしょうか。
私が教室をおこなうと、ふだん傾眠ばかりしているお年寄りがしっかりと目を見開き、集中力を持続させ、言葉を発し、礼儀正しく受け答えしてくれることがあります。それを見た介護スタッフさんは驚いているんですが、それは単に、私が「一社会人」として現れ、相手のことを「一社会人」として接することがそうさせているだけなんです。つまり、介護認定調査員が来た時とそれほど変わらないことが起こっているんです。
社会人として声をかけ、社会人として1、2時間を過ごしてもらうこと。そのことがお年寄りの「生きる力」を湧かせ、「社会死」や「人間死」から遠ざける、いちばんの薬になっていると私は思っています。
※
高齢者福祉施設も地域コミュニティも、お年寄りを管理しようとせずに、まずは「社会人性」を少しでも伸ばすべきだと私は考えています。
安全管理を重視するばかりに、心を押さえつけて、心を切り離すような高齢者ケアは「責任感ばかりが妙に強い、冷たい高齢者ケア」にしかなりません。それはいたずらに認知症を促進します。多くの高齢者福祉施設はすでに「認知症作成工場」になっています。現場では薄々そうだと分かっているんです。衣食住だけをやっていてもお年寄りの心は温度を失っていくだけだと気づいているんです。しかし、ひとたび高齢者ケアが動き出すと、どうしても人間は「心」よりも「決めごと」を優先してしまうのです。
どこかでその流れを変えないといけません。
だから私は危機感をもって、この本を企画しました。
人間には、自分が社会人であり続ける「場」が必要です。
お年寄りをお年寄りとしてパッケージする社会福祉ではなく、お年寄りをできるだけ社会人として社会の「場」に組み込むことが、これからの日本の各地域の問題を解決するひとつの鍵になるのではないかと私は思っています。
※
さてみなさま、この本をここまで読んでいただき、ありがとうございました。
『お年寄りを笑顔にする50のスイッチ。』は、私自身が高齢者のための移動教室や介護の取材の中で得た心の方針をまとめたものです。この数年間の活動や取材で感じ続けた思いを、この本にはぎっしりと詰め込むことができました。高齢者の暮らしのそばには、「高齢者と接する人が忘れてはいけない心の方針」がいつも共有されているべきだと私は思っています。この本が、その整理にお役に立てれば何より幸いです。
その最後に、高齢者ケアをする方への私からの勝手なお願いを伝えさせていただきたいと思います。
老いは治すものではありません。
解決できないことがあってもいいんです。
まずは、お年寄りのいちばんの味方になってあげてください。
自然な毎日を暮らすための自然な支えであってください。
そして、あなたのまわりにいる人を「社会死」させないでください。あなた自身もまた、最後まで「社会死」しないような人生の計画やビジョンを持って、老いの日や最後の日を迎える準備をしてください。それが私の願いです。
この本を刊行するにあたってさまざまな方にご援助いただきました。
燦葉出版社白井隆之さんには心から感謝いたします。
また、出版社の垣根を越えてご助言をいただいた編集者のみなさま、ありがとうございました。
そして、日々お年寄りと時間を共にしているケアスタッフさん、フロアリーダーさん、施設長さん、生活相談員さん、ケアマネージャーさん、作業療法士の先生、高齢者福祉関係者のみなさまには、私の活動や、この原稿のためにいつも助けていただきました。また、事前に原稿を読んでいただき、様々なご助言いただいた専門家のみなさまにも心から感謝申しあげます。本当にありがとうございました。
そしてもちろんこれまで出会ったお年寄りのみなさん。日々、いろいろなことを教えていただいて、本当にありがとうございます。
みなさんには「結局、高齢者ケアは人間ケアであって人生へのケア」なんだと気づかせていただきました。
「老いた日々もなかなかいいもんだ」
誰もがそう思える社会となることが私の願いです。時折そんな表情を垣間見せてくれるお年寄りのみなさんにはいつも励まされています。老いてなお上々。多くの人がそんな言葉にたどり着けるよう、私自身一日一日を重ね、一回一回の教室を心を込めて続けていきたいと思っています。
|
▲ 上にもどる ▲