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来てくれる教室は、
「介護業務内ではなかなか手がつけられないけれど、 高齢者にしてみればとっても重要な部分」 を埋めることを目標に活動スタートしました。 それは高齢者の心の底。 「生きる心」の部分。 現在の介護や高齢者ケアの中ではどうしても二の次になってしまう「生きる心」の部分を陰ながら支えるために、 来てくれる教室ではたくさんのスローガンを掲げています。 1. 最後の日々の「一日」は重い。 老いることは誰にでも訪れます。 しかし、本人にとっては人生の一大事です。 ……ガクン。 ……ガクン。 自分の人生がはっきりと変化していきます。 からだ、あたま、こころ。 生活、環境、行動、社会的な立場……。 後戻りのできそうにない「ガクン」を体験するたびに、頭の中にはさまざまなクエスチョンが浮かんできます。この先、自分は一体どうなるんだろう。これからどう生きていこう。不安をぬぐいさる答えはなかなか見つかりません。絶句させられるような不安がどんどん胸の奥に積み重なっていきます。 老いるって本人にとって目の前の暗くなる変化です。 のんびりとも、ゆったりともしていません。痛くて悲しくて情けないことばかりが続きます。「いよいよこれが私の人生の終わりか……」。老いるとは人生の終わりの始まりを察することです。本人にとって衝撃的とも言えることなんですよね。 その衝撃を感じた人と、まだそう感じていない人とでは「一日」の見え方がまったく違うと思うんです。 たとえば、桜。 「天気が悪いから今年は花見に行けなかったね」 こんな言葉だって、老いたと自覚している人とそうでない人では重さがまるで違うかもしれません。でも、実際の高齢者ケアの場では「体調リスク」や「人手の問題」を考慮した上で花見が計画されます。「少し風邪気味だから◯◯さんは花見はよしましょう」となることもありえます。 そして、花見が実行されても「見せて終わり」だし「見たからOK」となります。いやいや花見ってそういうもの? 本当は、自分の好きな人とおいしいつまみと冷えたビールで心ゆくまで花見をするということが花見なんです。つまらない人と花見をして、「あなたには見せてあげたでしょ」なんて態度を取られるくらいなら布団をかぶって寝てた方がましかもしれませんよね。 だって、その桜は本当に最後なのかもしれないんだからね。 その価値は大きいと思うんですね。 そんなこと考えていたって施設ケアの中に組み込むことは無理。これも分かります。でも、その重さだけは意識しておかないと。 お年寄りがケアを受けるその日一日は、その人に許された30000日の人生の、残り1000日のうちの1日かもしれないんです。高齢者ケアをするんだったら、その貴重な一日に関わる恐ろしさのようなものをいつも感じていていないといけないと思うんですね。 それは目標ではなくて意識です。 老いる一日ってふつうの一日とはちょっと違うんだ。 認知症の一日ってふつうの一日とはちょっと違うんだ。 障害を持って暮らす一日ってふつうの一日とはちょっと違うんだ。 まずその意識が必要だし、気合いが大切なんじゃないかと思うんですよね。 私は2011年から高齢者向け移動教室をおこなっています。 夜勤専任介護士としても介護に携わり、たくさんのお年寄りとも知り合いました。 教室や夜勤が終わると、私はできる限りお年寄りのみなさんのお部屋に立ち寄るようにしています。ひとりひとりに声をかけて、その場でひとしきりおしゃべりします。そんなみなさんからもっともよく聞く言葉があります。 それは、 「生きるのはもう十分。もういい」 というセリフです。 なにも予定がないお年寄りの頭に毎日浮かぶこと。 生きる不安。死ぬ不安。 答えの探しにくいことばかり。 お年寄りがいちばん困っていることは、自分がこの体で今後どうやって生きていけばいいのかについてです。でもそれってなかなか答えが見つからない。いいアイデアも浮かばないし、誰かがいいアイデアを見つけてくれそうにもない。ちょっとしたヒントさえ見つかる気配がない。「だったらいっそのこと、生きるのはもうたくさんだということでいい」という答えがすべてをうまく解決してくれるように感じる。 そうやってお年寄りは言葉をなくしていきます。 言葉数の少ないお年寄りは言うことがないから黙っているのではありません。無理しか言わないお年寄りは困らせようとしてそう言っているのではありません。心の底の思いを言葉にになんてしようがないだけなんです。 「もう生きていなくていい」 という言葉の前には千も万もの思いが省略されています。自分の人生が終わってしまうことに対する言葉にならない思いがたくさん詰まっています。だからこそ、そんな言葉の裏側には、たくさんの言葉にならない思いがあることを想像して、理解して、共有してください。 高齢者ケアには想像力が必要だとよく言われます。 たしかに本当にその通りだと思います。 でも、想像しようと思って想像できることと、できないことがありますよ。お年寄りの心の内側はたぶん誰にも想像なんかできません。どれだけ想像しても80年間生きた喜びも80年間生きた後悔も分かるわけがないんです。 だったらむしろ想像なんてしないほうがいいんです。 甘っちょろい人生経験で想像するくらいなら10分でも20分でもいいからご本人の言葉に耳を傾けてみるべき。お年寄りの言葉をたくさん聞いてください。言葉をたくさん聞かせてくれる間柄になってください。そんな間柄になるためにもまずはひとつだけ想像してください。 このお年寄りは自分が死ぬのが悲しいんじゃないか、と。 それはきっと、そのお年寄りが「その日を生きる力」になるに違いありません。 ただのお年寄りなんて一人もいません。 かならず何か抱えていらっしゃいます。 いつも痛みがある……。 不自由な身体が苦しい……。 弱った身体での生活が不安……。 悲しみを抱えたまま終わっていくことが悲しい……。 特に施設に入居しているお年寄りは、いつも何かしらつらいことを抱えていますし、それはいつもひとつやふたつではありません。その重なりを常に意識しながらお年寄りに接してください。 お年寄りはひとりひとりです。ひとりひとりにつらいことがあります。 症状が重いかどうかではなく、症状があればつらいんです。客観的に見てどうかでもありませんし、比較してどうかでもありません。しかし、高齢者ケアをしているとついつい心はそれ以外の判断をしがちです。 「こちらの人は症状がまだ軽い」 「この人はまだそれほど痛いはずはない」 でも、本人にとっては痛ければつらくて当然です。不安であればつらくて当然なんです。お年寄りでなくても、たとえば風邪をひいたときに「風邪くらい」と言われたら、誰だって悲しいし悔しいしつらいですもんね。 痛みがたいしたことではないとされる。 痛みがないことにされる。 お年寄りにとって、そんな苦痛がもっともつらい苦痛です。その痛みは人生を暗くする痛みであり、救いようのない重大な痛みです。 この人は平気かもしれない……。 もしそんなふうに感じたら、自分だったらどうだろうかと考えてみてください。 もしも自分が人生最後の日々に「痛み」や「障害の悲しさ」を持って暮らすとしたら……。しかも、そのつらさを「理解」されずに暮らすとしたら……。 あなただったら、そのとき何が必要かをぜひ想像してください。 どうして高齢者ケアや介護が必要なのか。 年に一度くらい、じっくりと一日かけて考えてみてください。 高齢者ケアは暮らしのお手伝いをすることが全般です。 それが目的そのもののようにもなります。 しかし、高齢者ケアのそもそもの原点は「弱った体で人生を終えようとしている人の心を支えること」です。 人生を終えようとしているのに食事もトイレもうまくできない。 ただ穏やかに暮らしたいだけなのに身体がいうことをきいてくれない。 それがつらい。 だから手伝うんですよね。 ただ単にそれが「できないこと」だから手伝うのではないんです。 「できないことが切ないこと」だから手伝うんです。 支えるのは暮らしじゃない。 そもそもは心のほう。 高齢者ケアという役割が世の中に生まれたのは、人生の最後を切なくなく過ごさせてはいけないという人間同士の責任のためです。 切なくないという言葉は「尊厳」という言葉にもつながります。 高齢者ケアは「尊厳へのケア」そのものであることを忘れないでください。 生活のケアや介護業務はゴールではありません。 それは尊厳をケアする手段のひとつにすぎないのです。 高齢者ケアは単なるお手伝いではありません。 やって終了、ではないのです。 高齢者ケアは踏み台です。
6. お年寄りのためにレールを敷こう。高齢期を生きる人のための踏み台になることです。 踏み台とはしっかりとした足場です。これまで手の届かなかったところに安定して手を伸ばすことができるための生きていく素地のようなものです。 たとえば、学校の先生は1+1を教えてくれます。 そうやって生きていくための素地を子どもに与えてくれます。それは単なる解き方ではなく、これから世の中を生きていくためのしっかりとした踏み台のひとつでとなります。 高齢者ケアはお年寄りの代わりに1+1を解きます。 そうやって自分でやりたいのにできなくなってしまった部分を補って、お年寄りが生きていくための素地をつくっています。それは、今までできていたことをこれからも安定してやり続ける安心のための踏み台なんです。 踏み台はなにかをするための道具ではありません。 なにかをするときの補助的な道具です。 そもそもお年寄りは手伝って欲しいのではありません。まずはただ踏み台が近くにあって欲しいのです。つまり、手伝ってくれる人が近くにいて欲しいのです。 そこにあるということ。 踏み台の役割はまずそこにいてくれるということ。 そういう安心があるからこそ今日一日もどうやら暮らしていけそうだと思える。この先も大丈夫だと思える。 そんな安心感があるからこそ、命は前を向くのです。 心を支えるって、「安心」や「自信」を相手の心につくること。 そして、「生きよう」「生きれる」「生きていて問題がない」という感覚を持たせて失わせないことです。 高齢者ケアする人の存在は心の踏み台そのもの。 安心の踏み台に徹するだけで、お年寄りの毎日の質は変化するものです。 電車で旅行するのは楽しいものです。
7. 高齢者と思うな。高齢者という「服」を着た人だと思え。ガタンゴトンと揺れながら目的地へ。ワクワクする時間が終わると目的に到着。そこで美味しいものを食べたり、温泉に入ったり、珍しいものを見聞きしたり。しかし、そんなゴールの喜びを味わえるのは誰かが敷いてくれたレールがあったからこそです。 そして高齢者ケアもレールです。 介護業務もケアプランの実行もレールです。 それはつまりお年寄りがその日どこかに行き着くためのレールです。 言い換えるならば、すべての高齢者ケアは、お年寄りがたどり着きたいゴールのための前準備のようなものです。高齢者ケアする人はいつも旅行という楽しみを支える陰の立役者なのです。 そして旅行には変更がつきものです。 予定していたレールが好まれなかったり。 準備したレールを選んでくれなかったり。 体調の変化や気分が優れずに予定がキャンセルになったり。 レールってそういうことです。 選ぶのはいつも旅行する人なんです。 高齢者ケアする人はいつだって人生旅行の旅行代理店であって、旅行がスムーズに進行するための添乗員なんですよね。 お年寄りのゴールは今日一日。 介護業務というレールに乗って、「いい一日だった」というゴールや、「明日も楽しみ。しっかりと生きよう」というゴールにたどり着いていただく。 その責任を果たすために、いくつものレールを準備していたり、変化に対応できるレールをいつでもつくり出せることが、高齢者ケアをする人の腕の見せどころなのです。 お年寄りと話すとき、いつも私がやっていることがあります。
8. 1に頼りがい。2に優しさ。まず、相手の見た目を取っ払います。 それから、顔のしわも白髪も打ち消します。 力のない目つきやこちらの見る疑わしい表情も一旦置いておきます。 そして、「お年寄りという服」を着ているんだと思い込みます。 話しかけるのはその中にいる人です。 中にいる人とはすぐに出会えます。 まず、目の前にいるお年寄りの顔をじーっと見つめて、相手の30歳代、40歳代の頃の顔を想像します。 そして、 ……よく見ると目がぱっちりして美人な顔立ちだなあ。 ……これだけ神経質だからお元気なころはきっとキッチリとした生活をなさっていたに違いないな。 ……若いころのこの人はきっと颯爽としていて、僕なんかは太刀打ちできなかっただろうな。 などと考えて、その当時の姿を思い起こします。高齢者的な要素もすべて当時のものに変えてしまいます。入れ歯の口もとも、不自由な身体も、穏やかな雰囲気も、それらはすべて着ている服だと思い込んで、若々しいの相手の姿に意識を集中させるのです。 中にいる人は、自分よりも10歳くらいしか離れていません。 それくらいに思い込んで、目の前の相手の姿と、想像上の相手の姿とすり替えます。 それはほとんど妄想です。 妄想がいやならば、若いころの写真を見せてもらったり、いつでも目につくところに飾っていただいていてもいいと思います。 そうするだけでも「相手は見た目どおりのお年寄りだ」という先入観を取り払って、「相手は見た目はお年寄りだがそれは単なる『服』であって、中身は私たちと同じままだ」と意識を変えることができます。 その同じ人が「お年寄りという服」を着させられて苦労している、と思うから手伝いたいと一層思えるんですよね。 するとこちらの態度も自然に変わります。 大変な思いをしている人に対して、言葉も礼儀正しく、表現もやわらかく変化もします。 それをくり返していると、だんだんその人のその姿が本当に「仮の姿」に思えてきます。 いえ、多分、高齢の方の高齢な姿って、実はみんな、その人の「仮の姿」なんじゃないでしょうか。 なのに「仮の姿」で暮らさないからつらいんです。 そもそもお年寄りはみんな意外とそう思っているかもしれません。 これは「仮の姿」なんだと。 「本当の姿」はきちんとあるんだと。 本来の自分はこの「仮の姿」の中にしっかりとあるのだからそっちを見てくれと。 いえ、そう思っていていただきたいと思いますね。 『人気者になりなさい』
9. 会話は重い。ひと言でいうとそういうことかもしれません。 でもそんなふうに言うと、「そんなちゃらちゃらした考えで高齢者の健康や身体や時間を守ることができるのか!」と怒られてしまうかもしれません。 だったらこうだとどうですか? 『信頼関係を結びなさい』 これだったら怒る人はいませんよね。 『相手を好いて、相手に好かれなさい』 これもそうでしょう。 でも、人気者になりなさいとは、要は、そういうことです。 では、どんな人が人気者でいられるのでしょう? 人柄が良さそう。 慈愛にあふれている。 でもいまいち高齢者には人気がない。 そんな介護スタッフさんをたまに見かけます。 実は、高齢者にとって、その相手が「優しい人柄かどうか」はあまり関係がありません。 高齢者ケアするのに重要なことは、目の前のお年寄りがどう時間を過ごしたいのか、どう過ごすべきなのかをきちんと見定めようとする責任感です。 その責任感の中には「優しく接する」ことや、「いたわりの表現に徹する」ことや、「ひとつでも多く心を上向かせる言葉をかける」ことが要素として含まれています。 この順番は大事です。 優しいから責任を持つのではなく、責任を持つから優しいんです。 高齢者ケアする人が、優しくて、朗らかで、明るくて、頼りがいがあることは責任の中に含まれるものです。その仕事の一部なのです。 そして、仕事の一部の中で、態度だけではどうにもならないのが「頼りがい」です。 手助けをてきぱきとこなし、健康や安全をしっかりと守ることができない人は、いくら優しさがあふれていても大きな助けにはなりません。 高齢者が求めているのは「1に頼りがい。2に優しさ」です。 頼りがいを感じさせる人こそが、お年寄りの暮らしを明るくし、お年寄りの心を支えることができる人です。 心ごと支えてくれる人を高齢者は心から信用します。 そんな人が高齢者世代の人気者になるのです。 ある日、教室の帰りがけ。80歳の奥さまのところに立ち寄っておしゃべりしていると、話題がやさしい息子さんのことになりました。聞くと、なんとほとんど毎晩、息子さんから携帯電話に電話があるそうです。なかなかまねできることではありません。ご本人はもちろんいつも楽しみにしているとのことです。
10. どんな時でも、口元には笑みを浮かべていよう。しかも、携帯電話に録音機能がついていて、その会話の内容を聞かせていただけるということになりました。それはこんな内容でした。 「母さん、今日はなにしたの?」 「今日はねえ、おやつがこうでね、夕飯がこうだったのよ」 「あー、そう……」 「それからリハビリの先生がきてこう言われたのよ」 「あー、そう……」 「私の関節はこうなんだって」 「あー、そう……」 毎晩電話してくれるというからにはきっと優しい息子さんなんだろうと想像してました。なのでこの「あー、そう……」の連発には思いがけない冷たい感じを受けました。いえ、それでもご本人にしてみればありがたいとおっしゃるし、やさしい息子で感謝もしているとおっしゃっています。眠れない夜には息子の声を何度も聞いているのだとか。 話を聞けば聞くほど、なんだか私には、心弾む会話にはとても聞こえませんでした。 会話することも大切です。 しかしひょっとすると、実は、「自分は会話するのに値する人間だ」と感じることのほうが大事なのかもしれません。 その感覚を持ってもらうこと。 その感覚を奪うような態度をとらないこと。 誰かと会話するということは、その高齢者にとって「わずか残された世界とのつながり」なのかもしれません。 だからこそ、ひと言、ふた言、立ち止まって言葉を交わすこと。 口もとや目の表情だけで会話をすることだって高齢者にとってはこの世界で生きている大きな確認になります。日々のコミュニケーションが限られている人にとってはなおさらのことでしょう。 心が通じ合えばそれで十分会話になります。 回数や密度も大事ですが、そこはやはり心です。 相手のつらい心境を察するような心の通った会話をひとつでも多くしてください。 会話って生きる力につながります。
11. どんな時でも,ゆっくり、低く、ほがらかに話そう。これはお年寄りに限りませんよ。人間の心には「人との会話」が必要ですから。 そして、会話は言葉でするとは限りません。表情でだって会話はできるものです。 目が合ったら笑い返してうなずく。 どんなに急いでいても穏やかな眼差しをつくる。 口元にはいつも笑みを浮かべておく。 驚くようなことがあったら口をとがらせておどける。 うまく事が進んだら口をまっすぐに結んで力強くうなずく。 こんなふうに目元や口の表情だけでもいろいろな会話をすることができます。 顔の中で、もっともよく動く部分は口です。 この口の表情づくりは意外と重要なんです。 そのことについてこんなエピソードがありました。 ある老人ホームで車椅子でお暮らしの方とおしゃべりしていたときのこと。ほぼ100歳の奥さまですが、とてもかくしゃくとして、ユーモアもたっぷりあって、それはそれはしっかりされている(大好きな!)奥さまです。その方と私が、知っていることわざを出しあいっこして遊んでいたんです。 すると、 「目は口ほどにものを言う。 口は目ほどにものを言う」 そんなことをおっしゃったんです。 私は、心の中で、……ん? と思ったまま聞き流しました。 シャレを言おうとしたようだけれど、口がものを言うのはあたり前だなあ、と思ってしまったんです。でも後でよくよく考えたら、それは違っていました。その方は、「目の表情」だけじゃなくて「口もとの表情」からも相手の心が透かし見えるということをおっしゃっていたんです。 口の表情づくりは大事。 心が透けて見えるから気をつけたほうがいい。 100歳の方が言うんだから間違いありません。 人って目でも口許でも話すことができるんです。 言葉が不自由な方、コミュニケーションがとりにくい方、話したくてもおしゃべりする内容が思い浮かばない方、さまざまでしょう。でも、相手の顔を見て、目や口許が動けばそれは会話です。言葉はなくてもいい表情をすれば、それが励ましの言葉にもなるし、黙っていても目や口許に遠慮がなければそおれは残酷な言葉です。 口は目ほどにものを言います。 口許にぜひ心をこめてみてください。 それにしても、100歳とはそんなところにも目をつけているのかと驚かされるものです。自分が100歳になって自分より半分以上も歳下の人にそんなシャレたこと言えるかなあ。 会話の基本は、ゆっくりと、低く、ほがらかにです。
12. どんな時でも,心にノックしてから話そう。これは意識的にすること。意識しないと、つい早口になるし、指示するような声高になるし、とがった声になってしまいます。高齢者ケアっていつも忙しいですからね。 でも、聞いて理解するということにいくつもの障害物があるのがお年寄りです。お年寄りは「お年寄りという服」を着ていると別の項で説明しましたが、耳もまた「お年寄りという耳当て」をしています。そして、言葉の理解力にも「お年寄りという帽子」をかぶってています。 その見えない障害物をしっかりと意識して、考慮しながら、言葉をゆっくりと、低く、ほがらかに話してください。 さて、それはどうしてですか? いま理由を書いたばかりですが、実は、その理由にも理由があります。ゆっくり、低く、ほがらかに話す理由は、お年寄りがうまく聞き取ることができないから、だけではありません。本当の理由はやはり心の問題です。 早口で話されるとお年寄りは理解が追いつかなくて焦ってしまいます。低くないと耳によく聞こえず慌ててしまいます。ほがらかでないと気持ちが緊張してしまいます。 そして、「え? なんですか?」と聞き返さなくてはいけない。また自分が聞き返していることに気が沈みます。相手が分かるように話してくれないことに傷つきます。会話ひとつうまくできなくなった自分が悲しくなります。 だからゆっくり、低く、ほがらかに話す必要があるんです。 教室をはじめた当初はそのことがわからずに何回も失敗をしました。別の教室では雰囲気よく進めることができた内容が、次の教室ではほとんどうまく進まない。そんなことがよくあったんです。ここで笑いが起こるはずなのにシーンとしているとか、泣くほど喜んでくれるはずなのに途中退出が多いとか。 それはどうしてか私なりにいろいろと考えました。 理由のひとつは、私との関係性がそれぞれ違うから。2週間に一度の関係と会ってまだ数回の関係とでは同じ内容でも伝わる「感じ 」がことなります。そして、もうひとつの理由は、それぞれに応じた話し方できちんと話していなかったことで、その日その場の関係性をうまく築くことができなかったからだと、私は気がつきました。 お年寄りがうまく会話できないのは、お年寄りに能力がないからではないんです。話す側に会話する能力がないからですね。 会話のポイントをさらにあげておきましょう。
13. どんな時でも、元気な姿で元気づけよう。相手の心に聞く準備をつくる。 名前を呼びながらそばに寄って話す。 内容は要点だけ短く。 まず、最初から用件は言わないことです。 例えばこんな感じ。 「○○さあん、こんにちは。顔色がいいですねえ。お風呂はいりました? へえ、そうですかあ。ええと、○○さん、ちょっとお話きかせてもらっていいですか……?」 話しの切り出しにしっかりと時間をかけていれば、 (……あら、なにか言いたそうだけど、なにかしら? さあ、聞かれたら答えよう) という心になってくれます。用意ができたら顔つきでわかりますので、相手の表情を確認しながらこちらの用件を伝えます。人の部屋に入るときは誰だってノックをします。ノックされた方は聞く体勢と心を整えます。そうするように、ふだんの会話でも心にもノックをする感覚です。 そして、耳が不自由だからといって大きな声で話さないこと。がなり立てているように受けとられてしまうと、やはり心を傷つけます。話しはじめる前にまず相手にしっかりと近づいてください。耳のそばまで近づいてはっきりと話してください。それでしっかりと聞こえますから。 相手の名前を呼ぶことや、自分の名前を伝えることもお年寄りの状況理解をスムーズにします。 そして、短い言葉で簡潔に伝える。 なるべく余計な情報は挟まないでください。おしゃべりができないということではないんです。ただ、その準備ができていないとことにたくさんの情報を一気に流し込んでも受けとめきれないんです。いつもの人が来たと理解して、なにかを話しにきたなと状況を把握してくれれば、ある程度のスピードでも楽しく会話をすることができると思います。 会話って、車の運転と少し似ているのかもしれません。 キーをさして、エンジンをかけて、まずは車庫から道に出る。目的地や走行ルートをイメージしながら、ゆっくりと走り出す。周辺の状況を判断をして、情報もひとつひとつチェックして、他の車との流れに乗っていく。 でも普段、お年寄りは居間のソファにいるんです。 それを急にバス通りに引っ張りだそうとするとお年寄りでなくても混乱してしまいますよ。 だからこそゆっくりと間をとって、エンジンが温まるのを待つ。車が動きだすとのきちんと待つ。そして、いつでもエンジンが温まりやすくなるよう、しょっちゅう声をかけて会話をしておくことです。 まわりのそういった配慮が、人が高齢期を生きていくための「地力」につながるのだと私は思います。 どうやって元気づけたらいいのかわからない。
14. はっきりとした返答があるまでは動かない。たまにそんな相談を受けることがあります。 若い介護士さんも悩んでいますし、ご家族もどうしていいかわからないときがあると思います。真剣に相手のことを考えているからこそ、どうやっていいのかわからなくなるものなのかもしれません。 でも、元気づけるのにそれほど難しい方法はいらないと私は思いますよ。 自分自身が元気な様子でふるまっていればいいのです。 表情にも。 態度にも。 言葉じりにも。 元気を弾けさせてください。 そして、明るくて、堂々として、自信たっぷりで、頼りがいのある余裕しゃくしゃくな態度でふるまいます。 そのエネルギーがあふれる姿を見ているだけでお年寄りは元気が出てくるものです。 廊下を歩いているとき。 エレベーターを待っているとき。 どんなときでも元気な姿を意識します。 介護業務だったら、食事の準備、周辺業務、汚れたものの片づけ……、あらゆる仕事を楽しそうにニコニコとこなしてください。その明るい表情や元気いっぱいの姿でお年寄りの心は救われて、心の栄養にしてくれます。 「あんたに会うと元気が出る」 「あんたの姿を見てるだけでおかしい」 「あんたとしゃべってると勇気がわく」 そう思わすぞ、そう言わすぞって私は必ず意識しています。 今ではもう、お年寄りの顔を見ただけでそのスイッチが自然に入るんです。「よし勝負だ、元気な姿見せまくるぞ!」って。だからその直前まではくたびれ果てていたのに、お年寄りに会った途端に人が変わったように元気になって驚かせたことが何度もあります。 「あんた、いつみても元気だねえ」 呆れたように言われることも多々ありますが、その言葉の裏にある「ここまではいかなくとも私もぼちぼち元気出そう」という思いを感じると、がんばってよかったなあって思うのです。 私が開催している「来てくれる教室」は会話の連続です。
15. ちょくちょくそばに座ろう。「どんな内容か」よりも「どんな手触りを残すか」を大切にしています。 手触りの残らない会話。 逆に,冷たい手触りを残してしまう会話。 そんな会話にならないよう注意しています。 たとえば、こんな会話はNGです。 こちらから話しかけておいて、答えを待たずに先に進む会話。 なにかを答えてくれたのに、うまい返しのひと言もなく先に進む会話。 表情が曇っているのに、気がつかないまま話し続ける会話。 そのような会話は、お年寄りにとって、取り残されたような寒々しい気持ちにさせられる会話で、やらない方がましな悪い手触りを残す会話です。 会話だけではありません。 すべてのアプローチについて、いい手触りを残すことを意識しています。 たとえば、部屋に入るときや、声をかけてなにかをうながすとき。 常に、相手を待ちます。 先に進めずに、絶対に相手の答えを待ちます。 相手の心が、こちらの存在を感じ取って、会話がはじまることを認知して、その十分な準備してもらうためにも、とにかく待つことです。そうすると気配りされていることにお年寄りが気づきます。 気配りをしてこちらのペースにあわせてくれた……。 きちんとした対応をしてくれた……。 相手のペースを尊重して、しっかりと待つ、しっかりとひとつひとつを進めると、そんないい手触りを残します。 ノックはしても返事を待たずに入室したり、エプロンをかけながら「エプロンかけますよ〜」と言ったりする人もいますよね。でもそれって、相手の存在を完全に無視していること。こっちのペースはほぼ捨ててください。相手のペースがすべてなんです。「私、急いでます!話しかけないで!」という表情で仕事している人もよく見かけますよね。 私も介護士やっていたので、その気持ちはよくわかりますよ。でも、相手が弱い立場であることを利用している自分の心の卑しさに気づくと、なかなかそれはできないですよね。 お年寄りの心の中はいつもいろいろな悩みが渦を巻いています。 ……こんなに大変な状況なのにこちらのことを待ってもくれない。 ……いつも待たして迷惑をかけてしまっていて申し訳ない。 ……できない自分が情けなくて不甲斐ない。 もちろんそんなことを思いたくて思っているわけではありません。心にそんな言葉が浮かんできてしまうのです。高齢者ケアの仕事は、いかにそういう気持ちを浮かばせないかという仕事です。 そのために大事なのが心の扱い方なんでしょうね。 心の扱いが雑だと相手の心は閉じてしまいます。それは、どんなに言葉や態度が丁寧であってもです。だからこそどんなときでも声をかけるときは自分のギアを一度ローに入れ替える。できれば確実に一旦停止。気持ちに一拍おいてから、ゆっく〜り相手の名前を呼ぶ。 「……こ・ん・に・ち・は、◯◯さん」 そして、相手の心がきちんと反応するまでは動きません。 もちろん私だって意識していないと自分のペースでやってしまおうとすることがありますが、大事なのは意識をすることです。 そんな意識を習慣にして、生きる心を深く傷つけたりすることのない高齢者ケアにつなげていただきたいと思っています。 介護の教科書には「寄り添いなさい」とさかんに書かれています。
16. 近所のあんちゃんでいよう。しかし、実際に寄り添う人はあまりいません。 でも、悲しそうで,つらそうで,心が不安や失望で覆われている、そんな表情のお年寄りがいたら、たとえ何かをやっている最中だとしてもそれを中断してその人のそばに寄り添ってください。 解決しなくてもいいんです。 気の利いた言葉もいりません。 ただ肩を並べて座ってあげてください。 ただ近くにいるだけでもいいんです。そして、相手と同じ表情をして、「どうしたの、大丈夫?」と声をかけてください。しばらくそうしてから、もう一度元の場所に戻って、その後はちらちら視線を合わせてあげながら様子を見ていてあげてください。 そんなヒマないよ! という人もいるでしょう。 でも、ヒマがあろうとなかろうと、大切だし、必要だから寄り添うべきなんですけどね。血を流しながら床に倒れているのと同じなんですよ。高齢期を過ごす人とって「寂しい」とか「心細い」とか「不安だ」ということは。 いつだって「置いてけぼりの不安」を感じさせないことです。 そして、「置いてけぼりにされなくて良かった」という安心に変えることです。 マイナスの表情はプラスに変えるいいチャンスですから、何かがあったらそばに座ったり、何もなくてもちょくちょくそばに座ることを意識的にやってみてください。 結局のところ、高齢者ケアは不安の解消です。 高齢者ケアを難しくするポイントは不安な気持ちが原点ですし、その不安のいつも気にかけていることが問題クリアの基本だと思っています。 人それぞれに責任感の出発点があります。
17. たくましく、たくましく。介護士、ご家族。 医療、施設。 地域、行政。 それぞれのスタンスの違いによって目標とするゴールは少しずつ変わりますし、その責任感が生まれるポイントも変わってきます。 私は、介護士や教室の先生役などいろいろとやっていますが、いつも気持ちの1割くらいは近所のあんちゃんでいようと思っています。 頼りがいがあって。 寡黙で、いつもニコニコしていて。 世話焼きで、よく心配してくれる。 そんな近所に住んでいるあんちゃん。 そんな人こそがお年寄りを助けようとする心を持っているんじゃかな、最初にお年寄りを助けようとする人ってそんな人じゃないかな、って思っています。 私が介護施設で夜勤業務をおこなっているとき、かならず近所の小さな祠に立ち寄っていました。
18. 未来をたくさんつくろう。そして、手をあわせてこう唱えます。 「たくましく、たくましく、たくましく……」 夜勤業務の間、いろいろなことが起きます。 はじまる前から、今夜はどうなるか大変そうだ、というときもあります。入居されている方によっては認知症の不安症状がどうしてもおさまらない夜もあります。急な発熱をされる方もいますし、一週間ほど容態が悪い日が続いている人もいます。もちろんその晩に亡くなるということも何度か経験しました。 しかし、なにがあってもたくましくいること。 どんなことがあってもたくましくて冷静で男らしくいようと、私はいつも祠の前で手をあわせて気持ちを高めていたんです。 へっちゃらですよ、平気です。 あなたは絶対に大丈夫ですからね。 だから今日は朝まで安心してぐっすりお休みください。 一晩中自分がそんな態度でいられることを祈っていたのです。 体力が落ちてしまった人。
19. いつまでも社会人でいてもらおう。不自由な生活を余儀なくされた人。 社会とのつながりが減ってしまった人。 いろいろな機会を失った人にとってつらいことは、どうしても心が前を向かないことです。 お年寄りの暮らしには前が必要です。 明日やることがあるとか。 明日来る人がいるとか。 今月はあと何回、これをやらないといけないとか。 具体的な未来の目標になることをなるべく探して、課題として渡すようにしてください。お年寄りだけではなく、人間だったら誰だって「前」が必要なんです。 「私の名前は富永です。これからは毎月二回来ますので僕の名前、覚えてくださいね。……富? と聞いたら、永と答えてくださいよ〜。いいですね、忘れても何度でも教えますから、聞いてください。そうですねえ、今年の大晦日までに覚えてくれればいいので!」 半分冗談のような未来の目標を渡してあげると、お年寄りによっては「へへん、年末まで生きたらね」なんて笑って言ってくれたりもします。 「あはは、じゃあ、生きてるうちで結構です! ……っていうか、さっき長谷川一夫は顔写真で名前当てたじゃないですか。僕のことだって覚えてください! そんなに違いありませんから!」 そんなことも言ったりして。 もちろん、実際に覚えなくたっていいんです。 前について話すだけでも人間の心は十分うきうきするものですから。 元気に、前向きに、希望を持って! そう漠然と励ましても、そう言われたお年寄りにしてみれば、一体何を目標にして、何をどう前向きにいればいいのか見当もつきません。 大事なことは具体的であること。 小さくていいので未来のイメージをつくってください。 「明日来ますね。ゆっくり休んでください」 「今度ぜひいっしょにコーヒー飲みましょう」 「いつかご家族の方、紹介してください」 「来年の桜が楽しみですね」 「明日の昼食は腕をふるいますからお楽しみにね」 どんなことでも大切な目標になります。 未来を描く具体的な言葉をいくつもいくつも伝えてあげてください。 お年寄りのお暮らしぶりを近くで見ていると気がつくことがあります。
20. 元気でいるという責任を持ってもらおう。一日に何度か、とても心許ない表情をされます。 それは数時間ずっとということもあります。 そんな表情がいつもの表情になってしまっている方もいらっしゃいます。 ……私はここでこのままいていいんだろうか。 ……私はここでなにをして生きているんだろうか。 言うなればそんな表情。 高齢者ケアに携わったことがある人ならば、おそらく誰だって見たことがある表情だと思います。 これはほっとけません。 不安で。 寂しくて。 情けないような表情。 高齢者ケアの仕事を始めた頃の私もそんな表情をたくさん見て、私なりにショックを受けました。もっと自信を持っていてくださいよって心から感じました。そしてお年寄りに必要なのは、「私はここでこうやって生きていて大丈夫だ」と感じてもらうことなんじゃないかなとも思ったんです。 そして、高齢者ケアをしながら「ここで堂々と暮らしてください」と盛んに伝えました。 でも、表情はなかなか変わらないんですね。 なぜなら必要なのは誰かにそれを伝えられることではないんです。自分でそれを信じることができないと意味がない。私が「教室」という場をつくったのはそんなことがきっかけでした。 私は「高齢者向け移動教室」をやっていますが、楽しんでもらうことや頭の体操が第一の目的だとは思っていません。 一番大切にしている目的は「場」をつくることです。 場とは、自分が、自分として生きていく場です。 ただ世話をされるだけの自分ではなく、正当なひとりの社会人として人と接し、人に接せられる場。 その場をいつの場にして、継続的にある状態にする。 そうするからこそ、「しっかりとした足場があるひとりの人間の生活」ができるんじゃないか、「私はここで生きてて大丈夫だ」と思えるんじゃないか、って考えています。 それなりにでも生きる場がないとね。 やっぱり人間、生きてて生きにくいんです。 生きる場がないと、生きてる感じがだんだんしなくなる。 生きる場を奪えば、生きる力が減ってくる。 お年寄りのための生きる場をつくらないことは、お年寄りに生きる力をつくらないことと同じことなんです。 そのことを全国の老人ホームは危機感を持って真剣に、具体的に考えて欲しいと、私は切に願っています。そのような場がないから高齢者の元気がなくなってしまい、認知症を発症させて進行させてしまい、けがなどのリスクも増やしてしまうからです。 でもそれはきっと高齢者ケアする人の多くがすでに気がついていること。 身体や生活のケアも大事。でも、高齢者ケアの根っこになる部分は、お年寄りが暮らす「環境」をつくることですもんね。そのアイデアがなければどうぞ「教室」をつくってください。私のことを呼んでくれてもいいですし。 時間もない、予算もない、アイデアもセンスもないって? いえいえ、ないのは危機感ですよ。 できることもない。
21. 楽しいよりも、うれしいをつくろう。行ける場所もない。 話す相手もいない。 食べて寝ているだけ。 自分は結局それだけの存在なんだなあと思ったら、人間なら誰だって「早くお迎えがきてほしいなあ」と考えるようになります。 でもこれは自殺願望ではないですよ。 誰かの役に立つことができる唯一の生きる道だという、お年寄りにとって前向きな願望なんです。 だからその思いを頭ごなしに否定するつもりはありません。 でも、私はこう言葉をかけます。 ほんとだね。 苦しいのはやだもんね。 でも、その前に重大な責任がありますよ。 お迎えなんてそのうち誰にだって来るんだけど、そのときまではできるかぎり健康のままで、ケガもせず、まわりの誰も慌てさせることなくしっかりしててくださいよ。 毎日心掛けて。 責任をしっかり果たしてくださいよ。 ○○さんには大変な責任があるよ。 健康に気をつけるという○○さんにしかできない大切な責任がありますからね。 そんな話を、ふたりっきりの居室や骨折したときのお見舞いの病院などで、時にほんわかと、時に笑いながら賑やかに、時に手を握りながら力強く話します。すると、その言葉を否定するお年寄りなんてあんまりいないんですよね。 ああ、そうだった。 それがあった。 って顔をしてくれるんです。 その責任よ! 意識に定着してくれ! と私は祈ります。 そうすればお年寄りにとっての「生きる目標」になるんです。お迎えが来てほしいなんて願うひまもないくらい、そっちに集中して熱中できるはずなんです。 毎回の教室の終わりがけにも、私はこんなことを言っています。 「2週間後にまた参ります。季節の変わり目ですねえ、体調管理に気をつけてくださいよ。また次回もここで今日と同じメンバーで会いますから、それまでしっかり暮らしてくださいね。本人がやれることはやらないと健康は保てませんから。今ある元気は本人の気合いと根性で維持してください! では、以上、おつかれさまでした!」 また会うという約束のために。 そんな責任を感じて、生きる力に変えていただきたいのです。 私の教室はおもに、入居されたお年寄り向けにつくっています。
22. 喜ばせない。いっしょに楽しむ。ショートステイのみなさんやデイサービス向けにも教室をしていますが、やっぱり、通いと入居ではまるでお年寄りの表情が違います。 通いのお年寄りは「よそ行き」の顔をなさっています。 でも、入居されたお年寄りは「生活の素顔」のまま暮らしています。 しょんぼりとしています。 困り果てたような顔をしています。 生きている意味に迷っています。 もちろんすべてのお年寄りがそうだとは言いませんが、老いるということに対するリアルな反応は迷いであり、困りであり、悲しみです。素顔のまま暮らしているとどうしてもそんな表情を見せてしまう。そんな表情ではない「よそ行き」の表情になってもらうために、外部から世間の風を吹かせるために教室がやってくるわけです。 でも、たとえ「よそ行き」の表情になったとしても、心の迷いは紛れるだけでなくなりはしません。だからこそ私がいつも気をつけていることは、楽しいことよりもうれしいことをつくるということです。 この説明がなかなか難しいんです。 多くのレクレーション担当者さんは、 「どうすればレクレーションが盛り上がりますか?」 「もっと楽しいレクレーションを教えてください!」 「笑顔を引き出すようなにぎやかになるレクレーションの方法は?」 ということを知りたがっています。 ただ単純に退屈で楽しみを探しているという比較的元気なお年寄りだったら「楽しい」でもいいかもしれません。 しかし、高齢者ケアを受けるようなお年寄りになってしまったという事実は本人にとっては、それなりに受け止めにくい「悲しみ」なんです。その上、障害で苦しんでいたり、痛みや失望と戦っているのであれば楽しむ気分にはなかなかなれないものです。 退屈だったら、楽しさでまぎれます。 しかし、悲しさには前を向かせる強さが必要。 それって楽しいではなくてうれしいなんですよね。 はじめて教室をする場所や、教室にはじめて参加してくれる方がいると、私はいつもこう考えるようにしてます。 このお年寄りが笑顔ではない理由はなんだろう? その理由の理由はなんだろう? その理由の理由の理由はなんだろう……? デイサービス、ショートステイ、特養入居、老健入居、入院中……、それぞれの状況で笑顔を奪う理由は違います。 だからこうしよう、こう話しかけようと考えます。 でも、理由の理由を最後の最後まで掘り下げていったら、行き着く答えはいつも同じです。 それは結局、老いてしまったことの悲しさです。 では、老いて悲しむ人や病気や障害に苦しむ人に必要なものはなんですか? 楽しい笑いですか? おもしろおかしい笑いですか? いいえ、違います。 それはやっぱりうれしい笑顔なんです。 お年寄りに必要なものは楽しいことではありません。 うれしいことです。 教室があること。 教室で自分を確かめることができること。 そんなことこそが教室がつくりだしたい「うれしい」なんです。 高齢者施設では、お年寄りに喜んでもらうためにいろいろなイベントが企画されます。
23. 頭の体操は心の体操。私もいろいろなイベントを見てきました。 お年寄りが困ってしまうイベントや、大々的にはじめたもののぽしゃってしまったイベント、企画した人が自分の責任を果たすためのイベント。もちろん私自身が企画してうまくいかなかったこともたくさんありました。 うまくいかないイベントにはどうやらひとつの共通点があるようです。それはちょっと本格的になってしまったイベント。たとえば、有名ジャズバンドの演奏会とか、詩吟教室とか、内外から盛大に人を集め過ぎたイベントとか。 やるからにはいい内容で満足していただこうという考えかもしれませんが、老いるということを軽く考えていると大きな失敗をしてします。老いた状況には、やはりそれなりに高齢者向けにアレンジを加えたり、より配慮されたマッチングをすることが必要です。ええ、もちろん本格的もいいんですよ。でも、どうせやるのなら「受け手に対して本格的」な内容にしないと。演る人、観る人、参加する人、企画する人、すべてにとって不幸なイベントになってしまいます。 どこの施設でも、イベントって迷走するものです。 ただ喜ばせるためのイベントだったら、一生懸命ににぎやかにやればいいのですが、高齢者ケアの目的ってなんですか? 喜ばせることですか? 違いますよね? イベントはお年寄りの暮らしを高めるためのひとつの手段に過ぎませんよ。ちゃんとお年寄りの暮らしを良くしないと。 ただ喜ばせる目的でおこなうイベントは本当にむなしいものです。 本当に必要なことを満たしているイベントにしない限り、お年寄りにとって意味のあるイベントにはなりません。結局、リアクションがいい人向けのイベントか、ただ家族向けの写真を撮るチャンスをつくるためのイベントにしかならないんですよね。 私がやっている教室もひとつのイベントです。 ビックイベントではありませんが、小さなイベントを定期的に継続して生活にリズムをつくり、生活の憂さを晴らす場にもしてもらうという意味では、年に一度の夏祭りにも負けない本格的な高齢者向けイベントだと思っています。 参加型のイベントで一体何が大事なのかというと満足感ですよね。 「満足感=大きい、立派、派手」 って思うのかもしれませんが、お年寄りにとっての満足感は「幸福感」じゃないかって思うんです。老いを深めるに従って、その傾向は強くなるような気もします。身体や能力が万全でないと、置いてけぼりにされたりして、かえって悲しい経験になったりもします。満足感にはほど遠くなるんですよね。 だから、社会でバリバリ働く人がストレス発散のために参加するイベントっていう感覚とはちょっと違うんですよね。結局、何が満足かというと、大きな出来事よりも、中くらいの「いい気分」をちょくちょくあることだっりするんです。 だから、もしイベントでお年寄りに盛り上がってもらいたいと思ったなら、ぜひ一生懸命な姿を見せてください。そして、 ぜひ心を込めてイベントをつくってください。満足感は規模の大きさじゃなくて眞心の大きさですよ。 だから何より一緒に楽しんでください。 楽しませようとせずに自分も楽しむことです。 お正月の初詣でならば、「はい10円。拝んできて」と言うのではなく、「私もお祈りします。今年こそ結婚できますように! ついでに、○○さんが健康でいますように!」と聞こえるように言えばみんな楽しいでしょう。 お花見ならば、「あっちが咲いてる。ほら集まって,はい写真」と言うのではなく、「は〜、気持ちがいいですねえ〜。久しぶりに桜見ながらのんびり歩いたわ〜。こんなんだったら毎日来たいわ〜!」なんて心から喜んで楽しむ。 スモールサイズのイベントの方がかえって気持ちが届きやすくて満足度の高いイベントになります。「いい一日が過ごせて良かった。思い出に残るわ」なんて言ってもらえるのもこっちですよね。 なにしろ高齢者ケアはインスタントなものではありません。 月に一回イベントをやれば喜んでもらえるなんて見え透いた魂胆は興醒めだし、第一根性が悪い。悲しくしかならない。 まずは満足感のある生活がきちんとあって、その延長線上にイベントがあることが理想的なんです。満足度のために派手なイベントを企画するのは愚の骨頂。お年寄りの心をとらえていない発想だと私は思いますよ。 私が教室をするとき、
24. お年寄りの心の中に生きる力をつくろう。「みなさんこんにちは。今日は頭の体操をやりましょう」 という説明はしません。 みなさんこんにちは。 ○○さん、調子はいかがですか? おお、そうですか! 顔色もいい! 声にもハリがある! 申し分なし! ……なに、どうしたの? なにかいいことあった? え? 僕が来たから嬉しい? あはは、あとでチューしてあげます、あはは〜、ウソウソ! ○○さんは調子はどうですか? 最近、運動は? 毎日3往復歩いている? 素晴らしいっ! 100歳の健脚美人ってそのうちテレビが取材しにくるかもよ! いやまじで。いまのうちにサインもらっておきましょうか。 でもまあ、運動って大事です。 みなさんにも週に一回、体操の時間もありますよね。出てます? あれ、無理に参加することはないですけど、やっぱり出ていたほうがいいですよ。いいって言うより、気持ちがいいもんね。気持ちいいことはやっとくといい。だってほら、身体ってね、そもそも動かすようにできてるから。動かさないでいると身体が気持ち悪くなります。適度な運動は身体にとっていちばんの薬ですよ。手を挙げたり、膝を曲げたり、身体を思いやるつもりでちょこっとね。……◯◯さん、なににやにや笑ってんのよ? 運動してくださいよ! しません? フン、勝手にしてくださいよーだ。 でも、◯◯さんはえらいですよね。 動かさないとなまるのは身体だけじゃないですよ。口もそうです。◯◯さんは年中しゃべってる。……あはは、年中でもないか。でも、言葉を発するっていうのはとても大事。話すことで、だ液がたくさん出ますから。消毒したり、悪いものを流してくれて、口の中が健康になる。すると、胃腸も健康を保てます。胃腸が健康だと食欲もわくし、食欲があれば元気もでます。たくさん食べて、たくさんおしゃべりするとアゴを使いますから脳への刺激もたくさんいきます。だから、◯◯さんは脳に刺激がたくさんいっている顔してますもんねえ! さすが、◯◯さんっ! 健康の源は口ですから、◯◯さんに見習って、みなさんもたくさんしゃべってください。こんにちは、ありがとう、馬鹿やろう、この野郎、なんだって構いません。あはは。まあ、いろいろな言葉をつかって、いろいろな人の名前を呼んで話すことはとってもいいことですよね。 使わないと口だってなまる。言いたい文句もすっと出てこないと親子ゲンカすることだってできません。 よくしゃべる人は頭が良くなるんですよね。 頭の運動不足というのは一番いけません。頭を動かさないってことはどういうことですか。 なにかを見ても感動しないとか。 なにかを見ても疑問に思わないとか。 なにかを見ても美しいなとか嫌だなとか感じないとか。 頭を使わない人はだんだん心も動かなくなります。 だから、頭の体操って大事なんですよ。 頭の体操することは学校で勉強するのとはちょっと違うんですね。「うーん、なんだろう?」とか、「ああ、そうか!ナルホド!」とか、「わからなかったぞ、チクショー!」とか、そうそう、頭をつかってやりとりして心を動かすことに意味がある。 頭の体操って、心の体操なんです。 日頃から、心をしっかりと伸ばしたり縮めたりしていただきたい。 ……さあ、そうこう言ってるうちに◯◯さんは寝てしまいました。春眠、曉を覚えずですねえ。まあ、いいです。春ですから。さて、みなさん! 春です。春と言えばウグイスですが! ……と、まあこんな感じです。 もちろん「頭を使う機会をつくる」ということも大事ですが、それって足し算を解いたり、漢字のドリルをすることではないんです。しっかりと心の手応えになっていないと、頭の体操もレクレーションもやる意味がなかなか見いだせないのではないかと思いますね。 世の中のあらゆる仕事は「誰かの生きる力」につながります。
25. 心の窓を開いて、世間の風を吹かそう。八百屋さんも、レストランのコックさんもそうです。バスの運転手さんだって、警察官だって、歌手やお笑い芸人だってそうです。みんなみんな、誰かが生きる力になるものをつくったり、生きる力を守る役割を担ったり、生きる力を強くしたりします。 そして、お年寄りの心の中に、「生きる。生きたい。良く生きたい」という気持ちをわかせるのが高齢者ケアという仕事です。 誰ですか、「高齢者ケアは誰でもできる簡単な仕事」なんて言っている人は? 病苦があるお年寄り、もう治らない障害があるお年寄り、前向きな気持ちにどうしてもなれないお年寄りもいます。そんなお年寄りの「生きる力」を失わせないように働いて、毎日毎日つくり出すように働くことが高齢者ケアです。 これほど難しい仕事はなかなかないと思います。 誰ですか、「高齢者ケアは誰もやりたがらない仕事」なんて言っているのは? 高齢者ケアは、死を感じている人に「生きる力」をつくる仕事なんですよ。 この仕事は仕事の中の仕事だと思います。 誰ですか、「高齢者ケアはつらい仕事」なんて言っているのは? これほど「生きる力」を相手に与える仕事はありませんよ。「生きる力」を与えるということは、自分自身が「生きる力」を与えてもらえるということ。高齢者ケアはやっている自分も生き生きとすることができる仕事です。 私自身はいろいろな仕事を経験してきたのですが、個人的な感想を言わせていただくと高齢者ケアという仕事はどうも他の仕事と違っているようです。 人の死にたくさんふれます。人のおしっこやうんこもたくさんふれます。障害を持って人生の最後を生きるつらさ悲しさにもふれます。たしかに激務です。でも高齢者ケアは「無理して働いている」「働いていて大変」という感覚がほとんどないのです。それはきっとすべての作業が「生きる力」にあまりに直結しているからなんです。目の前にいる助けが必要な人を助けるということほどモチベーションがいらない仕事はありませんから。 でも、その視点がないと高齢者ケアは本当につらい仕事かもしれません。 会社のために働く人、自分の生活のために働く人は高齢者ケアをすればするほどつらいと思いますし、される方もまた不幸でしょうね。 教室が終わったあと、私は参加していただいた人や休んでいた人のお部屋を尋ねて歩きます。
26. イレギュラーについて積極的でいよう。「今日はありがとうございました。これで失礼しますんでご挨拶して帰ろうと思って……」 その場で二言三言会話して終わることもあれば、そのまま一時間以上おしゃべりすることもあります。「わざわざ、声かけていただかなくても結構ですよ」なんて言ってくれる施設長さんなんかもいますが、私としてはこうやって声をかけて歩くために教室をやっていると言ってもいいくらいなんです。 ご家族が海外で暮らしている、あるお年寄りがいます。 あるとき、こんなことを言っていました。 「家族? いつか来たっけな。多分、来てると思う。家族が来ない日? いつもここで座ってます。座って何やってるかって? そうなの。……私、いつもここで何やってんだろうって思うのよね」 その方は毎日ほとんどの時間をお部屋で一人で過ごしています。 ぼそっとつぶやいた言葉の裏にある、空白の時間の長さを思うと私はぞっとしました。 また別の人はこんなことも言っていました。 「毎朝、起きたら、今日は誰が来てくれっかな〜、孫かな〜、娘かなあ〜っていつも思って玄関をずっと眺めてんの。昼間もずっと何回も部屋の入り口を見んの」 笑顔で話しているけど、やっぱり寂しさがにじみ出ます。家族は毎日のようにしょっちゅう来てるって言うんですが、私は2年間ほどのうち一度もご家族にお会いしたことがありません。 また別のある人は、私にメールでこう伝えてくれました。 「こうやってメールを書くだけで安心できます。誰かが私とつながってくれいていることがわかるからです」 多くのお年寄りがつながりを求めています。もちろん老人ホーム環境だけとは限らず、お年寄りの暮らしにはいつでもありうることです。まわりに人がいるのに言葉もかけられないし、心もかけられない。近くに世間があるのに風が吹いてこない。 淋しいとわがままを言ってるわけではなく、このままでは生きる力を保ちにくいから言っているんです。 お年寄りは一日千秋なんて言葉はちょっと生やさしく感じるレベルで、誰かがそこにやってくるのを待っています。誰かが風を吹かしてくれることが水や空気のように必要なんです。だからできる限り、顔を見にいってあげてください。 「元気? 顔見に来たよ」 という理由でいいんです。 「声聞こかなって思って」 という理由で電話もしてください。 ちょくちょく顔を出して、ちょくちょく声をかけて、そして世間の風を吹かせてあげてください。心の中身を換気するような感じでおしゃべりして、 「じゃあ、またね。来週も来るよ」 と次の約束をしてください。 それがまた世間とのつながりになって、生きる力になるはずですから。 教室で毎回のように使うのはiPadとスピーカーです。
27. お見舞いに行こう。それで画像をうつしたり、YouTubeの音楽を流したりします。携帯電話でWifi環境はすぐにつくれますから、美空ひばりでもなんでもすぐにかけることができます。 「私、美空ひばりよりこーちゃんが好き」 こーちゃんとは、(私も実はこうちゃんですが、それは置いておいて)その世代の人だったら越路吹雪なんですよね。だからそう言われれば、言われた通りの歌手の思いついた歌をかけることができます。 「こーちゃん! いいですよねえ! 愛の讃歌ね、あ〜なた〜の燃える手で〜、よし、かけちゃいましょう……!」 ってその場でできるんですね。 ただプログラムを消化するだけよりも、本当に心に響くものをどんどん作ることができる。まあ、いい時代になったものです。 人間の心を後退させるのは、淡白な毎日ですよね。 毎日に必要なのは枝葉末節です。 しかし、高齢者ケアをする側にしてみれば、イレギュラーなことはできれば避けたいと考えてしまわれがちです。 「◯◯をしたい。◯◯を食べたい。◯◯に行きたい……」 越路吹雪だったらすぐにどうにかなりますが、予算の問題、人手の問題、健康への影響、ケガのリスク、手間のことなどを考えると、どうしてもできなかったり、できるんだけど慎重策に落ち着いたりなりやすいものです。でも、スムーズに、整然と,確実に、把握できるように進行管理したいと思っているのはケアする側のエゴですよね。 ケアする人にはお年寄りの健康を守る責任がありますが、その人の人間らしい生活を奪う権利なんてありません。 お年寄りの毎日をどうするか。 生活環境をどうするか。 その判断の基本は、より安全で安心であることではありません。明日に向かって心が自由であることです。 望みを奪わない。 継続を終わらせない。 能力や希望を失わせない。 イレギュラーだからという理由でなにかを奪わない。 イレギュラーなことをすることは生活に色彩がうまれます。 そこには「その人らしさ」がうまれます。 その人らしいということは、他の人は別に望まないことを望むということです。 若い頃、ジャズが好きだったからジャズを聴かせましょうとか、スポーツが好きだから夕方は必ずお相撲を観てもらいましょうとか、過去からの連続性や、生活スタイルを引き続かせることも大切な「その人らしさの実現」ですが、老いた身の上を背負った上では別のことを望むかもしれないんですよね。高齢者のリアルに接していると、今この瞬間のその人らしさの方がよっぽど取り入れるべきその人らしさだと思います。 今、なにを望むか。 それがその人のその人らしさです。 今の望みを奪うと、失望だけが残ります。 やりたいと思ったことをさせてもらえない。こんな簡単なことさえ奪われてしまった。きっとお年寄りは小さなことで大きく喜び、小さなことでひどく悲しんでいます。何気ないことを簡単に切り捨てずに、大切に考えてください。 そのためにはイレギュラーな望みを、イレギュラーだからという理由で取り下げないこと。イレギュラーな望みこそ、その人らしさだからという理由でなんとか実現させてあげることがとっても重要に思えるのです。 毎月、おそらく100人くらいのお年寄りとおつきあいしています。
28. ご家族の味方になるな。力になっていることを強く実感させてくれるお年寄りもいれば、そうでもないお年寄りも当然います。それはそれでもちろんいいんです。だって、私の教室などがなくても生き生きと暮らしていくことができればそれに越したことはないんです。 だから私は、教室が来ることが喜ばれることがうれしいような、逆に悲しいような複雑な思いをいつも感じています。 いろいろな症状、いろいろな心情。 私がおつきあいさせていただくお年寄りは実に様々です。 もちろん入院される方もいらっしゃいます。すると、病院までお見舞いにいきます。慣れない入院で心細くしているだろうし、身体を壊したことにがっかりされているかもしれません。とにかく励ますために枕元に駆けつけます。 転居される方も同様です。まったく違う環境で心細くしているかもしれません。そんなときこそ、人の助けが必要ですからね。一番肝心なときに助けてこそ、高齢者ケアのはずですから。 でも、またそこに問題が生じます。 お見舞いすることが案外難しいんです。 職場のスタッフとして働いていたり、外部からの教室としておつき合いしていると、なかなかそれが喜ばれないことがあります。 個人情報を守らないといけないから……。 平等の支援をするべきだから……。 個人的なつきあいはなるべく避けてほしいから……。 そういった理由で施設側に難色を示されてしまうんです。施設がはっきりとそう言わなくとも、ケアスタッフ内の雰囲気として、 リーダーがいけば十分だから……。 自分が行くと出しゃばりに感じられるから……。 まわりに変な印象を与えたくないから……。 と、無難、無難に考えるようになる。別に行かないことが悪いことでもないし、逆にやって怒られるくらいなら、お見舞いなんていかないでおこうと考えてしまいます。 でも、その人の一大事なんです。 いま、人の心がそばにあることを必要としてるんだから、お見舞いには行ってみるべきだと思います。 もちろんそこまで親しくない方だっていますよ。でも、週に何度も顔を合わせている間柄で、相手の心を守る立場の高齢者ケアスタッフならば、いろいろと躊躇することなく、 「近くまで来たんでちょっと寄りました……」 って、声をかけてあげればいいのにね。 顔色を見て、優れなければさっと帰ればいいんです。でも、心細くしている人は、パッと表情を明るくしてくれるものです。 「あなたが来てくれて、本当にうれしかった。本当に感謝してるわ」 何度も何度も言ってくれることでしょう。退院した後も強いきずなができてケアだってお互いにやりやすくなるはず。 きずなを感じさせることが高齢者ケアの重要な役割のひとつです。 そのために、いざというときに一番大事なことをやり損なわないことをぜひ意識していただきたいと思います。 つまり、お年寄りのいちばんの味方であれということです。
29. 全体でくくらずに一対一をしよう。そもそも高齢者ケアというのは、「ご家族からお年寄りを預かっている」のではありませんよ。 お年寄り本人から本人を預かっているんです。 誰がお金を払っていようと、誰が努力をしていようと、高齢者ケアの対象はお年寄り本人。 お年寄りの心と身体なんです。 ご家族の言葉を大切に考えることは当然です。ご家族にとっても大切な存在を支えているということももちろんのことです。しかし、ご家族の言葉がご本人の心を上回るのはありえません。ご本人の心とご家族の考えをてんびんにかけて、フェアにジャッジするのが高齢者ケアの仕事そのものなんです。 そして、ご家族よりも冷静に高齢者の心を考えることができて、知ることができるのは、高齢者ケアのプロだけなのです。 ご家族にとっても「肉親が老いる、肉親が障害を持つ、その暮らしの責任を果たさなくてはいけない」という人生の一大事に直面しています。 ただ、それがどうあれ、これから命の問題に直面している本人が優先されないことはありえません。 家族がご本人にとって不利益な言動をしているときは、高齢者ケアのプロは「家族の間違いを諭す」べきです。 それがご本人にとっての責任です。 ご本人にとって「家族」ってなんでしょうか。 それはきっとご本人の暮らしの一部です。 大事な大事な人生の一部です。 高齢者ケアをする場合、ご家族とどうおつきあいするか、ご家族にどうこちらの考えを伝えるかはとても重要です。 深入りすると面倒だ……。 一ケアスタッフとして黙っていよう……。 会社にいわれた介護業務だけをやっていよう……。 そういった考えで高齢者ケアをしていては、お年寄りご本人にとって本当に支えが必要なところには手が届かなくなります。ご本人としっかり向き合ってください。そのためにも、ご家族ともじっくりと時間をかけて、言葉を交わしあってください。 高齢者ケアは肉体を使って働く仕事ではありません。 頭脳を使って働く仕事でもありません。 心を使って人間関係で働く仕事なのです。 教室への参加を声かけするのってなかなか難しいものです。
30. いっしょに心から笑い、悲しもう。「教室? 何やるんですか? 頭の体操? いや、苦手です。……え。歌なの? 歌も別に……」 なんと説明していいのか困ってしまいます。でも、よく分からないものには誰も参加してくれませんから、「頭の体操」「歌の会」「紙芝居が来ましたよ」などなどの声かけをしています。しかし、ある程度慣れてくるとこれが不要になります。 「富永ですが、今日もやりましょう」 これでいい。認知症の方だと私の名前を覚えていないかもしれませんが、いつもの赤いエプロンや顔つきはどこかに記憶に残っているものです。 「みんな集めていつもの会やりますんで、◯◯さんもどうぞ」 相手の名前を必ず呼んで、表情を見ながら受け入れ度を探ります。いずれにしても、「みんなを集めて会をやる」というのが最近の常套句ですね。 ただし、お年寄りにとって「全体」としてくくられることは大変な苦痛です。イベントをおこなうときも、ケアをおこなうときも、移動教室で全員に何かを話すときでも、お年寄りとはいつでも一対一を意識しています。 「ひとりの人間」対「ひとりの人間」。 その関係が基本です。だから名前を覚えて呼ぶことや、ひとりひとりに挨拶をすることを大事にしています。 「ひとりの人間」ってことは、少し回りくどく言い換えると、「敬意を払うべきひとりの社会人」ということ。それは、名前があって、仕事があって、家族があって、大事な今日明日未来をもったそれぞれの一社会人です。 人間は誰でも、一人前の社会人扱いされるとシャンとするものです。きちんと対応されるからこそ、 「あら、きちんとしなくちゃ」 「恥ずかしくないようやるぞ」 「しっかりとしていよう」 という心のスイッチが入るものです。 歌を歌うときも、 「さあ、みんなで歌いましょう」 とは、あまり私は言いません。 他の人と一緒にされてたまるかって思われますからね。まあ、考えてみればそりゃあそうです。それぞれ自分の人生を必死に生き抜いてきたんだもの。他の誰かと並べられたり、誰かの先導で歌を歌わされる人生なんて誰も送ってきていないはず。それこそ「一緒にすんな!」と思うくらいの意地をぜひとも持っていていただきたいもの。 だから歌を歌うなら、私ひとりが勝手に歌いだすんです。すると、歌いたい人が勝手に一緒に歌いはじめるんです。歌いましょうではなくて、会話の流れで自然に歌っちゃうんですよね。 私の教室は療法ではありません。 やっている内容で機能を伸ばしたり維持したりするのではなく、場の存在で「生きる力」を作り出していただきたいと思っています。 相手は一社会人です。 こちらも一社会人です。 その一社会人同士のつながりがあるからこそ、「一個の責任ある人間」という意識を引き出していただくことができます。それがないことが「生きる力」を奪っているから、その場をつくる。その基本はいつも一対一なんですね。 お年寄りに笑ってもらうのに言葉はいりません。
31. いっしょにやろうと言おう。こちらがニコニコ笑っていればお年寄りは笑い返してくれます。 反対に、こちらがキーッとなっていればお年寄りの気持ちは高ぶったり、暗くなったりしてしまいます。 高齢者の前ではいつも笑っていてください。 一生懸命に笑っていてください。 笑っている人がそばにいることはお年寄りに安心を与えます。いっしょに笑ってくれる人がいることは元気を与えます。笑うことはお年寄りのすべてのためになります。 ただし、禁止項目もあります。 笑いながら謝らないこと。 笑いながら怒らないこと。 笑いながらごまかさないこと。 相手の真剣をふざけて返すのは相手に対する侮辱以外の何ものでもありません。敬意のない笑いは禁物。お年寄りの心を深く傷つけてしまいます。 そして、お年寄りといっしょに笑うことも大事ですが、それ以上に大事なことはいっしょに悲しむことです。 施設で暮らすお年寄りで1秒で長く生きていたいと思う人は正直いってほとんどいません。 自由もない。 やることもない。 できることも少ない。 家族に引け目を感じている。 身体も悪い。 判断もおぼつかない。 いいことはあまり起こらない。 まわりにいる人はみんないい人で励ましてくれはするけど、こんな状況で長々と生きながらえるのは苦し過ぎる。 そう多くの人が感じています。 その気持ちを十分に想像していてください。 そう思う権利があると理解していてください。 たしかに、返事に困ってしまうような悲観的な発言もあるかもしれません。 でも、そんなときに相手の言葉を全否定して無理やり励ますよりも、相手の悲しみを受け入れていっしょに悲しむほうがどれだけ相手の力になるかわかりません。 悲しみを否定されるとお年寄りは絶望します。 悲しみを共有されるとお年寄りは希望を持ちます。 だからどんな喜怒哀楽にも、こちらの喜怒哀楽を近づけてください。 老人ホームなどで暮らすお年寄りの心に必要なのは「不安な心」「悲しい心」「つらい気持ち」を浄化することなのです。 ショートステイやデイサービスだともっと「楽しみたい」「誇りを持ちたい」「満足したい」という意識が強いかもしれませんから、相手の状況や心境などに寄って近づける意識のバランスを見極めてください。 私は、お年寄りご本人から直接いろいろな相談を受けたりすることが多いのですが、いますぐに笑顔になれる答えがないときは、
32. ギブアンドテイクを意識しよう。「なかなか難しいですが、いい方法をいっしょに考えていきましょう」 と言葉を返します。 そして、後日もできるだけ話題に出して、気にかけ続けます。いいアイデアやいい情報も積極的に伝えます。結局、まるで力になれないことも多いのですが、その姿勢を見せたいと思うんです。そして、できなかったとしても、それなりにやろうとしてくれたことにお年寄りは理解を示してくれます。なによりも、「いっしょに」考えて悩んでくれたことに力を得るのです。 高齢者ケアはいつも判断をせまられます。 でも、いつもいい正解を見つけることができるとは限りません。目の前で起きた問題を解決するどころか、なにが問題なのかもわからないこともしょっちゅうです。だからといって無理やり正解をつくってそれにあてはめるわけにもいかない。それではお年寄りはつらい。かといって宙ぶらりんのままではなお悪い。 いま出せるひとつの結論は、「これからいっしょに考えましょう」と宣言して、実行を続けることです。 何ごともいっしょだとできることたくさんあります。 たとえば、早口言葉もそうですよ。 発語がどうしても難しい人には、「生麦生米生卵」だってなかなか難しい。言葉がうまく出ない上に、間違ってしまうことが怖いから余計に言葉が出てきにくくなります。言ってみてくださいと言っても最初から「私はできません、やりません」の一点張りになります。それでも、「じゃあゆっくり、いっしょに言いましょう、な〜ま〜む〜ぎ……!」と声をかけるとこちらに合わせて言っていただけるんです。普段の会話が難しい人でも、こちらの口もとを見ながら、口を動かして発語できるんですね。 いっしょにする人がいるときの勇気や安心感は、誰にとっても本当の力を引き出すきっかけにもなるし、踏み台にもなります。 いっしょに考えましょう。 いっしょに行きましょう。 いっしょにやりましょう。 いっしょに探しましょう。 いっしょに帰りましょう。 その言葉が問題の半分くらいを解決してしまうこともあるんです。だからこそ、「いっしょに、〜しましょう!」をたくさんくり返してください。 ギブアンドテイクがあるからこそ、人間の心には生きる力が生まれます。
33. おたがい様ですよと言おう。自分が何かの役に立った。それに見合う反応があった。ギブとテイクが正当なバランスを持つことが自尊心につながる。だからこそ生活の中の役割なんかを持ってもらうことなどは大事なわけです。すべての人にやってもらってばかりでは生きる意欲を失ってしまいますからね。 ただ、人間関係ってすべてギブアンドテイクなんですよ。 つながってくれているということだけで、お互いにギブでお互いにテイクですから。そのことをぜひ言葉にしていただきたい。 「笑った顔を見られるだけでうれしいです」 「元気でいてくれて私もがんばった甲斐がありましたよ」 「手伝っていただいていつもありがとうございます」 人間は誰だってまわりの人と補いあいながら生きています。 一方的に存在する人なんていません。 お年寄りからだって受け取っているものがあることをいつも伝えてください。 「こちらこそお世話になります」 「元気でいてよ。頼りにしてますからね」 「今後もいっしょに生きていきましょう。よろしくお願いします」 こんな言葉は心の薬になります。 あいさつがわりに伝えるだけでも,お年寄りは心に安心と元気をつくり出してくれるものです。 夜勤業務中。
34. 最後までつき合おう。深夜に何度もトイレに行くお年寄りがいました。 5分おき10分おきにコールが鳴ります。 「いつもすみません……」 か細い声でそうおっしゃいます。 不甲斐ないような、申し訳なさそうな、悲しい表情をなさっているので、 「いえいえ、おたがい様じゃないですか」 とつとめて明るくこたえます。 すると、救われたような表情をされるんですね。私もまたそこで確実に救われるんです。 ……ああ、ほんの少しかもしれないけど、つらい気持ちがなくなってくれた。 そう感じることができますから。 高齢者ケアは、若い世代がお年寄りを助けるものではありません。 人が人を助けるものです。 お年寄りを助けるのではなく、人の高齢期を助けるものです。 これほどおたがい様のことはないんです。 「おたがい様です」 お年寄りにお礼を言われたり、わびを言われたり、何かをほめられたりするたびに返すことができる言葉です。 「いやいや〜、おたがい様じゃないですか〜」 照れながら言ったり、にっこり笑顔で言ってみたり。 でもそれって自分に対して言い聞かせてもいるんです。 相手にとってありがたいことは、自分にとってもありがたいこと。 相手にとって申し訳ないことは、自分にとっても申し訳ないこと。 おたがい様、おたがい様。 全部、おたがい様なんです。 高齢者ケアがいかにおたがい様か、ケアする人が忘れないでいると、きっとその人は、お年寄りといつまでもいい関係でいられると私は感じています。 誰かの心がないと人間は平静に生きていくことができません。
35. 励ましではじまり、励ましで終わろう。それは飲み水がいつも近くにあることと同じくらい重要なことです。 誰かの心が、自分の心のそばにあること。 お年寄りのそばにはいつも誰かの心を置いていてください。 特別に濃くなくていいので、いつも自然にそこにあって、いつまでも長く、最後まで離れないでください。 でも、いつもいつもいっしょ、いつまでもいっしょにとはいきません。 たとえば、お年寄りの居室を訪問したときにもどこかで切り上げないといけません。しかし、相手の顔を見ていると、まだ満足していないようだったり、顔では笑っていても心では泣いているようだったり、ぽっかりと空いた心の穴をいつまでも埋められないでいるようだったり……。そんな様子を感じ取ると、そのままひとりぼっちにはしておけなくて、あと5分、あと10分と滞在が延びてしまいます。 それでも帰る時間はやってきてしまいます。それでも後ろ髪がひかれるような思いがして、なかなか退室できなくなってしまうこともよくあります。 でも私はそんなときこんなふうに言います。 「いっしょにがんばっていきましょう。大丈夫、みんないますから」 「おたがいがんばりましょう。おたがい風邪ひかないよう気をつけましょう」 「僕もがんばります。かみさん大事にしてがんばります」 たくましく明日を向くような声でそう告げます。 今日はここで終わりだけど、ずっと一緒ですからね。 そんな気持ちを込めます。 お年寄りに「がんばってください」っていうと悲しい顔をされますが、「がんばりましょう」というと表情に光がさすんですね。 突けはなされた。 置いてけぼりにされた。 取り残された。 そう思わせてしまう言葉はすべて「私といっしょに向かっていこう!」という言葉に変えて伝えてあげるといいようです。 自分の心が、誰かのそばにあること。 それは、お年寄りだけではなく人間ならば誰もが大切にすることだと思うのです。 結局、お年寄りに必要なことは励ましなんですね。
36. お年寄りは自分だと思おう。「おたがい様だから、気にしないで!」 「一緒にぼちぼちがんばりましょう!」 「私たちがいるから大丈夫!」 「いいお正月を迎えましょう!」 「一日にこれさえすればバッチリですよ!」 こんな励ましの言葉を、表情、態度、存在感とともに伝え続けてください。前を向ける言葉で励まして、希望が持てる態度で励ましてください。そして、どんなときも味方であることを表現し続けてください。 たとえば、薬を飲んでくれないとき。 「薬、飲みませんか? 了解、了解。今はやめておきましょう!」 まず第一にお年寄りの味方でいることです。その上で健康に留意して、必要な薬を服用していただいてください。 たとえば、お風呂に入りたがらないとき。 「お風呂なんて入らない? そうですね、今日は寒いからよしたほうがいいですかね?」 お年寄りの言葉をむげに否定しないでください。理由が必ずあります。理由も考えずに一方的に指示しないでください。 たとえば、言葉で攻撃をしてくるとき。 「すみません! 私のやりかたが悪かったですね! 本当に申し訳ありません!」 お年寄りの怒りには謝罪してください。内容はともかく怒らせてしまったことを謝罪して、許しを得ることが第一に必要なことです。 相手がどんな間違いをしていたとしても、それは「認知症」がそうさせていること。「病気」がそうさせていること。「年齢」がそうさせていることなんです。 そして、そうしてしまうことに苦しんでいるのは本人。 身体や生活を支えるのは高齢者ケアではありません。 苦しんでいる心を支えるのが高齢者ケアです。 お年寄りの心の苦しみを理解して、心の負担を大きく包み込んで、最初から最後まで励ましに徹すること。 それが高齢者ケアです。 目の前のお年寄りは自分自身です。
37. 相手の死を思おう。これはものの例えでもなんでもありません。 目の前で困っている人は自分自身です。 私は教室の先生役や介護士などをやっていますが、どんな様子でやるかにはとてもこだわっています。ひと言で言ってしまえばはりきってるんですね。それはもう生き生きとしています。 なぜなら自分が教室を受けたり介護される立場だとしたら、そうじゃないとつらいだろうと思うからなんですが、でもやりはじめるとそんな理由なんか忘れて本当にはりきりまくってしまうんです。「は〜い! 今日も張り切ってまいりましょう〜! 今日も快調、サラマンチ会長!」とかわけのわからないことを言いながらでも、ニコニコしたり、ワクワクしたり、まるで遊んでいるように働くんですね。どうせなら、ああ、この人は根っから好きなんだろうな、って思われたい。そう思われたときに引き出せる安心感って大きいですからね。 人って理由の分からない行動を信用することはできないんです。 だから、理由をはっきりさせようとする。理由の範囲で行動しようとする。すると高齢者ケアはいつも業務内のことになってしまいます。でも、お年寄りと昼夜過ごして、言葉にならない言葉を感じとったとき、業務の範囲内ではその苦しい感じをフォローできないとすぐに気がついてしまうんですね。だから、教室という理由や、ライターの取材だからとか、そもそも根っから好きで遊びだとしか感じてないというウソの理由を作って、信じ込ませて、自分の思いを達成するしかないんです。 でも、それだって、じゃあその理由は? って聞かれることになります。 それは私自身も何度も自分に投げ掛けてきたことなんですが、まあ、正直に言ってしまえば、自分の直感がこのフィールドを選んだからとしか言いようがないような気もします。つまり、理由の理由はないってことになる。 でも、自分の動機をしっかりと整理したいと思うから、初期に感じていたことを必死になって思い出すと、自分の妻にはこの介護を受けさせたくないということが大きかったかもしれません。自分の両親や兄姉にももっと違うムードの高齢者ケアがフィットすると感じましたし、私自身もこの環境では暮らせないと感じたからなんです。 私は逃げ場になりたいんです。 高齢者ケアという本人にしてみれば思いもよらない窮屈な世界に、逃げ場をつくりたいと考えています。それでも逃げることはできないんです。環境からも逃げられない。時間からも逃げられない。あらゆる現実から逃げられません。逃げようのない世界にほんの少し逃げ場をつくってあげたい。希望という逃げ場や、頼りになる人という逃げ場や、日頃の憂さ晴らしができる逃げ場。私だったらそれがなくてはガマンがならない。 私はお年寄りを見るとき、いつも自分の姿を見ています。 お年寄りと常に同じスタートラインに立っていて、同じ逃げ場を探しているんです。そうしないと私の気が晴れないから。そしてたいがいの場合、私の気が晴れる方法を突き詰めていくとお年寄りの気持ちもきちんと晴れてくれるんです。 目の前のお年寄りが何を望んでいるのか。
38. 老いることは人生でいちばん大変なこと。何を悲しんで、何を怖がっているのか。 自分の命に何を感じているのか。 本人でさえうまく言葉で表現できない心の部分に近づいてください。その人の思いに近づいてください。高齢者ケアの質はきっとそこで決まります。 たとえばお風呂のことがあります。 「等施設では入浴は週に2回です。人員的にもそれ以上を増やすことはできません」 最初の契約時にそう言われて、ああそうかと思ってしまったら一生なんです。そのユニット、そのフロア、その施設で週3回入る人はひとりもいません。施設開設から10年間、ひとりもいません。そうなると職員もケアマネもそうではないわけはないと思い込むようになります。お年寄りからしてみても、たしかにお風呂は面倒だし、人の世話になってゆっくりできないし、毎日入りたいとも必要性があるとも感じないから週2回でいいと思うかもしれません。そういったお年寄りはおそらく大多数でしょう。でも、それを揺るぎない確定事項にしてはいけないんです。 そして、死についてもそうです。 人生が終わる恐怖について高齢者ケアはまったくフォローしません。学校には教師やカウンセラーがいますが、ケアスタッフやケアマネはその部分についていつでも耳を傾けるということはありません。いつでもその話を聞いてくれる相手がいるというだけでもひとつの大きな解決なのに。 看取りはするけど、死なんてわからない。 立ち入りたいけど、個人の心までは立ち入れない。 困っていれば助けたいけど、死については忘れてもらいたい。 「そんなこと言わないで。生きてください」 そう心を込めて言ったところで、ご本人にしてみれば解決以下なのに。ただの失望体験にしかならないのに、そう信じられているんですよね。高齢者ケアは死のフォローができないし、できるわけがないって。 でも、全部思い込みの誤解なんです。 お風呂は週2回も、死について話さないも、個室がいいというのも、ユニットケアがいいというのもすべて教科書に書いてあるウソですよ。だって、毎月100人といろんなおしゃべりとし続けている私がその反対意見をいくらも聞いてきましたから。もちろんお年寄り本人にね。 高齢者ケアすることの中心は、高齢者がいかに人生の最後をよりよく暮らすことです。 命が終わるという重大事をあまりに正面から取っ組み合ってしまっては施設ケアは成立しません。でもやはり相手の死を考えない高齢者ケアはありえないんですね。 まず、相手の死を意識することが出発点になります。 相手の命への思いを知ろうとしてください。 そのためには相手の死にもっと感情を傾けてください。 高齢者ケアする人は、もっともっと死を意識して、命をみつめて、人生を大切に扱うプロであってください。 お年寄りは死ぬために一生懸命に生きています。 その一番の理解者になってください。 お年寄りに接するようになって、一番初めに衝撃を受けたのは「自分がこうなるとは想像していなかったお年寄りが多い」ということです。
39. 老いは不治の病。お年寄りにこんな質問をすることがあります。 「年をとったら毎日悠々自適にのんびり暮らそう……って、思っていませんでしたか? でも、実際どうですか? 老いるって本当に大変です。はあ〜、こんなに大変だったのか〜! って気づくこと、多いんじゃないですか……?」 そう尋ねると、みなさん、実感を込めてうなずいてくれます。 老いることがとっても大変なことだとは知らない方が多いんです。 そこが老いの問題を大きくするひとつでもあります。 (いいグループホームにお住まいの認知症の方は「え? 私たちのんびり暮らしてますが?」と真顔で答えてくれます。認知症の方にとって、老いることや生きることの大変さや苦しみは少なくなり、気持ちや体調の快不快が重大事となりますから) 「老いる」という問題は、人生の他の問題とはまったく違います。 老いる前までは、働くことや協力を得ることや目の前のことをがんばることで、どうにか人生を前に進めることができましたが、老いることは根本的にはどうしようもできないことです。ミもフタもありませんが、老いるは本当にどうしようもない。寄る年波には勝てませんし、終わらない命はありません。 死ぬことにはそれで完結しますが、老いることは継続します。 しかも、生じる問題がひとつやふたつではなく、いろいろな面でいろいろなことが起こって複雑に問題がからみあいます。解決できないことも多いし、アイデアすら浮かばないことも多い。ひとつ解決できても、出てくる問題、解決できない問題が次々出てきて追いつかない。身体はどんどん変化していく。意欲も追いつかなくなる。自分ではどうにかしたくても、まわりのみんながあきらめてしまう。終わりのない問題解決にまわりの人を巻き込むこともいやだから一層意欲が低下してしまう。 そこで私は、冒頭の質問に続けてこんな話をします。 「人生は一生勉強っていうけど、本当なんですねえ。僕は月に100人くらいのお年寄りと会ってお話ししていますけれど、みなさん、本当に大変。どうすればいいかと、いつも考えていらっしゃるし、悩んでいらっしゃる。できないことも多い。あきらめることも多い。でも、できる範囲でそれぞれに努力なさっている。本当に頭が下がりますよ。視力も落ちた、耳も悪い、足も手も調子が悪い。その中、慎重にいろいろなことをやり通さなくてはいけない。人に迷惑かけたり、途中でトイレに行きたくなったり、ましてや転んでしまったいしてはいけないと、力を込めて、力を込めて、みなさん毎日を生きていらっしゃる。老いるって死ぬのよりも何百倍も大変なんですよね、本当。でもまあ、まわりにいるプロの人達の中にはその心をしっかりわかってくれる人はたくさんいますので、ぜひ安心をしてください。若いスタッフさんにもどんどん伝えていきますんでね……」 老いることの大変さをわかること。 どう大変なのかを言葉で整理して言ってみせること。 お年寄りがまず欲しいことは理解です。理解が正しくないから高齢者ケアのピントがずれるってみなさん感じてます。それでもそれぞれの状況を完璧に理解することはできませんが、少しでも理解の一端を示して差し上げることで、お年寄りは安心することができるんですね。 先日、何人かのお年寄りを連れてドライブに行きました。
40. 介護ではなく、福祉をしよう。隅田川を渡って、東神田から、日本橋、銀座通り。日比谷公園をすりぬけて皇居周辺。国会議事堂から三宅坂、英国大使館。そして、花曇りの千鳥が淵。 桜、桜、桜の一時間ほどのドライブでした。 桜の歌、春の歌、いろんな歌を歌いながら。みんなできゃっきゃ、きゃっきゃと騒ぎながら楽しいドライブになりました。 千鳥が淵のそれは見事な桜吹雪のトンネルを通りながら、助手席に座っていた奥様がぽろっと。 「こーんな桜、もう見納めだわ」 そのひと言が聞けただけでも出てきて良かった。お年寄りって、桜どころか、「この美しい世の中を見ていられるのもあと何年かだなあ」って考えていますよ。この世がいかに素晴らしいものか見せるために私はいるんだと思っています。 言葉にしない言葉をどんどん聞いてください。 そう思っているかもしれないと勝手に思い込んでください。そして、焦ってください。焦らないと結局やらないで終わってしまいますから。今日は天気が悪いし、雨が降ってるし、機嫌が悪い人がいるし、人手がないし、行けない人がいるし……っていろいろとできない理由ができてきてしまいます。でも、 「春を見るのもこれが最後なのかなあ」 「もうお寿司を食べる機会はないかなあ」 「温泉に入って気持ちがいいなんてことももうないだろうなあ」 って考えていますよ。 でも、そんなこと言いませんよ。 言わないからこそ想像してください。一本の桜の木の美しさが100本分、1000本分の美しさに感じるんだと思い込んでください。気分のいい人とゆっくりとした気分で桜を見ることができてよかった。いろいろな機会を誰かが骨を折ってつくってくれてうれしかった。今日一日がいい日で良かった……。そう思ってもらえることをフル回転で想像してください。 老いるとは治らない病気のことです。 不治の病であり、かならず人の命を奪います。 若くして不治の病に冒される映画などかありますが、自分の人生が終わるいうことはどんな年齢であっても恐ろしいし、寂しいし、悲しいことです。 お年寄りはいつも自分の人生の終わりが心の片隅にあります。いや、心のすべてを覆ってすべての景色を霞ませています。老いることは誰にでも訪れることで、手がつけられなくても仕方のないことだと最終的に考えられがちですが、たとえそうであっても不治の病と同じ恐怖があることを忘れないでください。 施設の行事だから花見に行くんではありません。 その桜の美しさを心から見せたいから花見に行くんです。 世の中的に介護というと、業務という感じがどうしてもぬぐえません。実際に、介護には業務的、作業的なことも多いものです。
41. 人の心がいちばんの薬。でも、介護とは「高齢者福祉」の中にあるものです。この福祉という漢字は、「福の神が止る」と分解できます。そして、介護という言葉は「介入して保護する」と読むことができます。つまり、福の神をやどすために介入して保護することが福祉の中の介護です。 でも、介護ばかりをやっていると、福の神がどこかに行ってしまいます。 どんなにがんばっても福の神がやってきてくれないから忘れてしまうのかもしれません。どんなにがんばっても福の神が見えないからあきらめてしまうのかもしれません。でも本当は、あるのかないのかわからないものは放っておいて、、やったかやってないかがわかることをすることに落ち着くわけです。 介護業務の難しさは、ずばり、やっていくうちに目的意識がずれてしまうことです。 高齢者ケアは身体をケアする作業ではありません。心をケアする作業です。その方法のひとつとして身体をケアしたり、生活をケアするんです。介護には作業的なことも多いのですが、その根本的な目的は「人が人に福祉をすること」です。 だからなるべくこう考えてほしいのです。 「私は介護をしているんじゃない。福祉をしている」 だからなるべく人にもこう言ってほしいのです。 「私は福祉の仕事をしています。高齢者のための福祉の仕事で介護などをしています」 そして、「どうしてその仕事を選んだの?」と問われたら、「お年寄りをお世話するのが好きですから」と相手が受け取りやすい言葉で答えるのもいいですが、私だったら、好き嫌いで人生の最後を扱ってもらいたくはないねと思います。せめて「福祉が好きだからです」って答えていただきたいものです。 キーワードは介護じゃなくて「福祉」です。 介護がうまくなるためには「福祉」をしてください。 介護を楽しく、誇りをより一層持つためには、「福祉」の意識をいつも持つことだと私は思っています。 「トイレに行きたいんだけど」
42. 心の温度をあたためようお年寄りはこう言います。もしくは、「あの、トイレ……」とだけ言ったり、何も言わずにトイレに向かったり。でも、「トイレを手伝ってください」とはあまり言いません。いや、いつか誰かがそう言っているのを思い出そうと思っても思い出せないんです。 なんでかなって考えてみたんです。 これは私なりの仮説ですが、トイレのときは声をかけてくださいと言われているから声をかけているんじゃないかと思うんです。 想像してみると、トイレの協力を人にしてもらうってなかなかのこと。おしっこがしたくなるたびに赤の他人に頭を下げて、身体を持ち上げてもらって、トイレに座らせてもらうって……私だったらかなりつらい。だからとってうまくできずに汚してしまって、余計な仕事を増やさせてしまうのも……申し訳なくて苦しい。だからきっと「指示に従っている」という形におさめているんじゃないかなって思うんです。 老いながら生きていかないといけないつらさ。 お年寄りの心の中はいつもそのことばかりです。しかも、自分の命がやがて終わるつらさをなかなか誰も共有してくれない。だから、高齢者ケアという責任が世の中にあるのに、業務、人手、予算、平等、リスク、などなどの理由でいちばん助けてもらいたい心の部分はノータッチのままになる。でも、その心を助けるのが高齢者ケアですよ。 高齢者ケアをする人は、お年寄りの身体や生活環境に対して働いているようですが、実は、その向こうにある心に働くものです。その心をないがしろにしたり、いたわらない態度で接することは、いかに生活や環境のために働いていたとしても、その方の豊かであるはずの時間をわざわざ邪魔しているようなもの。トイレに連れていくのはただの業務のひとつ。トイレの手伝いをさせる心のつらさをフォローするのが本来の仕事なんです。 残念ながら、老いを治す薬はありません。 老いは「不治の病」です。 だからこそお年寄りにとっていちばんの薬は「人の心」に他なりません。 でもそれは、愛情とか優しさとかそんなものではないような気がするんです。人間らしい心が近くにあるということだけでいいんじゃないでしょうかね。つまり、まわりにいつでも人の真心があると感じることができればいいんです。 お年寄りにとってまわりの人はすべて「命を養う万能薬」です。 しかし、心がなければ「命を削る毒薬」です。 心をこめていつも接してください。 心に対して心で働きかけてください。 そうすることで、お年寄りは、自分の心の中に「生きる力」をつくりだすことができるんじゃいないかなと私は思っています。 心に年齢はありません。
43. 相手の命のファンになろう。心にあるのは温度です。 90歳とか、100歳とか、年齢で相手を見ないでください。 それよりいまの心の温度のほうが大事です。 心の温度はいつだっていま生まれます。 心はいつでも生まれたてです。年齢なんか関係ありますか。どんな人にとっても年齢以外のものをたくさん持っているんです。 高齢者ケアの中心は心です。 うれしい、悲しい、つらい、生きていて良かった、生きていたい、もう生きていてくない……。 それはすべて温度なんです。 心にあるのは温度だけです。 私たちが見るのは温度です。 心に温度をつくるお手伝いをすることが高齢者ケアをするということです。 年齢。 血圧。 体温。 血糖値。 骨密度。 要介護度。 そして、心の温度。 心の温度を測るのはあなたの心でしかありません。 心を鍛えてください。 高齢者ケアする道具は温度をもった人の心です。 あなたは相手のファンです。
44. 本当はどうなのか本人に聞こう。相手の命のファンなんであってください。 人の命って「体操の鉄棒」のようなものじゃないかなって思うんです。 オリンピックの種目にある、あの体操の鉄棒です。 目指すのはもちろん美しい着地。 途中の山場をいくつも超えて、最後の最後に勢いをぐいと増して、身体を空中に飛び上がらせます。そして、ひねったり、まわったり、抱えたりしながら、最後、両足でぴたりと着地します。バランスをしっかりと整えて、勢いを増して、心に気持を充分に満たして鮮やかに着地します。 いかに着地をまとめるか。 これが大仕事です。 まわりの人が邪魔なんかしちゃダメなんですよね。 ただ固唾をのんでしっかりと見つめる。少しでも相手の力になればと心に念を込めて息を詰めて見守る。心で心を支えるんです。高齢者ケアって、最後の大回転から着地までを、気持ちをひとつにして見届けることじゃないかと私は思っています。 こうしてください、ああしてください。 監督やコーチになろうとする人もいますが本当に見苦しい。100年の人生の締めくくりを見事に総決算させる自信があって言っているんですか。100年の時の重さに比べてあまりにちっぽけで、無難な一般論で、ひとりよがりな押しつけをしていませんか。 良質なファンは見守っているんです。 自分の立場上なし得ることはしっかりとした上で、なにも押しつけたりしないで心から声援を送るんです。 死ぬことは生きることの大事な一部です。 高齢者ケアは、その人が生きる姿と、その人が死ぬ姿を見届けることです。 高齢者ケアって矛盾ばっかりです。
45. コールする気持ちを考えよう。助けろとも言われるし、あまり助け過ぎてはいけないとも言われます。施設では何不自由ない暮らしなのに、ご本人の自由な気分はあまりありません。長生きしてほしいとこちらが願っても、この状況が続くなら早くお迎えにきてほしいとお年寄りは心の底で願っています。 なんでしょうね、これ。 どうしてこんなにピッタリこないことが多いんでしょう、高齢者ケアって。 そもそもいろんな人がいろんな正解を言うんですよね。それぞれの人がそれぞれの正解を言うから、どれがいいのか分からなくなったり、やっていることがちぐはぐになったりします。介護の本にこう書いてあるとか、ケアプランにこう書いてあるとか、看護がこう言っているとか、ケアマネがどうとか、家族の要望がどうでとか、個人情報がどうとか、隣の部屋の方がなんだとか、その人のライフヒストリーがどうだったからとか……。じゃあ、一体誰の言うことを聞けばいいのってことになって、その場がまとまらなくなる。 いやいやもっと大事な人がいるでしょう。 いま、本人がどう思っているのか。 元気だったころのご本人だったらどう判断されるのか。 その思いが基準なんです。 答え探しの基本は常に「いまの本人」。もちろん本人の言葉をしっかりと聞いてください。本人の言葉をしっかりと受けとめることができる人間関係をつくってください。 高齢者ケアは、心で心を支えるのが高齢者ケアです。 結局はものすごく曖昧なものなんです。 でも、きっちりしてしまえばお年寄りにとって冷たいケアにしかならないかもしれない。それが高齢者ケアなんじゃないかと思います。 深夜の高齢者施設。
46. 怒りはSOSだと思おう。ナースコールを押すのを躊躇しないお年寄りはひとりもいません。 ひょっとしたら迷惑をかけるかもしれない。忙しいときに押してしまうかもしれない。少し待ってくださいと笑顔で言ってもらえるかもしれないけれど、そのときの情けない気持を味わわなければならないかもしれない。 深夜の一人部屋で、お年寄りは外の様子をじーっと耳を凝らして探っています。 いま押していいかな……。 もうちょっと後のほうがいいかな……。 誰ひとりとして、駅でキップを買うような気分でナースコールを押す人はいないんです。 他人に何かをお願いするのは怖いことです。 なぜなら相手に何かを感じさせてしまうから。しかもその結果は、毎日のいやな生活をさらにいやなものにするのか、少しでも気持ちを楽なものにするのかがかかっています。さらにはいざというときの自分の命にもつながっているということをお年寄りは心の底で感じとってしまいます。 ただナースコールを押しているお年寄りはいません。 本当にいろいろな逡巡の末に、お年寄りは誰かにようやく声をかけています。 声をかけるまえに何度も、何度も、声をかけるのをあきらめた心があるかもしれないことを私たちはいつも気にかけていないといけないと思うのです。 私は夜勤介護業務を3年間やっていました。 そのうちの何人かは、かならずナースコールを手にして休んでいました。それは身体のマヒのため寝返りすら難しく、枕元のナースコールさえ探し当てることができないような方々です。ナースコールは命をつなぐもの。夜、もしも急に苦しくなったときに誰かにすぐに来てほしい。知らせることができる安心がほしい。 あの小さなナースコールの機械が生きる心の支えなんです。 人手不足のためにすぐに対応できないこともありますし、その背景を分かっていただけずに恨まれてしまうこともあります。 でも、お年寄りも、ケアスタッフも、人手不足も、ナースコールも悪くない。 老いることを責めたってしかたがないこと。 できることはただ、ケアスタッフがコールする気持ちを少しでも理解することじゃないかなと思うんです。 これまで400人ほどのお年寄りとおつきあいしてきました。それぞれの顔を思い出しながら誰がいつどんなことで怒っていたかを思い出してみると、驚いたことに怒った顔を見たことがない人ってほとんどいないんです。
47. ふつうは捨てよう。家に帰らせてもらえなくて怒る人、持ち物をなくされたと怒る人。お風呂で侮辱されて笑われたと怒る人。やりたくないことをさせられて怒る人。楽しいことを中断させられて怒る人。不安にさせられて怒る人……。怒りたい相手に直接怒るのは辛抱していますという話もたくさんお聞きします。みんな、みんな怒っているんです。 怒った理由を解決できるかどうかはさておいて、怒ったことをそのままにすることはその人の言葉や存在を「0」だとしていること。怒りを無視されることほど目の前が暗くなることはないと思います。 そもそも怒るということは誰かに助けを求めているということです。 帰宅願望。徘徊。暴言暴力。介護拒否。妄想妄言。すべて根っこにあるのは、なにかを怖れる気持や不安です。その表現をぎゅうっと押さえつけても、押さえつけた手の中で余計に大きくなるだけです。 怒りの原因は怖れです。 なにか得体が知れないものが心を占めていて恐ろしい気持になっているんです。 その怖れや不安を軽んじないでください。お年寄りが何かを怖がることは、居室で転倒して頭から血を流していることと同じ暗い人の助けが必要なことです。 不安という血を流したままにしないでください。 不安という血を適当にぬぐわないでください。 お年寄りの怒りはSOSです。 SOSを受け入れることができないと言われたら、お年寄りはなにを支えに生きていけるでしょう。 どんな内容であっても怒りは受け入れること。 受け入れられない怒りは、押さえ込むのではなく謝ることです。 「それはできないんです。私たちで役に立つことができなくて本当にごめんなさい……。他にできることがあったら挽回できるようにがんばりますから、どうぞ許してください」 私はいろいろな活動をしながら、その合間に、いろいろな高齢者ケアスタッフとお年寄りの関係も垣間みてきました。心から人間関係を築く人もいますし、なかなかいい関係を築けない人ももいます。まじめで一生懸命。なんだけどお年寄りからは好かれない。そんな人がスタッフの中だけではなく、リーダーや施設長にもいらっしゃいます。
48. ケアの壁は破らないのが正解。そういう人を悪く言うつもりはありませんよ。 でも、人気がないんです。 嫌われていて、憎まれていて、蔑まれている。なんなんでしょう、そういう人って。私が思うには、多分、ふつうのことをしっかりとやる人はダメなんです。 逆に言うと、特別なことはきちんとした理由がない限りやらないとか。思いつきでやらないとか、感情のまま行動したりしないとか、その場のノリでなんてことは絶対にやらないんですね、そういう人は。自分の仕事に責任を持って、無責任なことなんて絶対にしないわけです。 でも、やっぱりふつうの態度じゃダメなんですよね。 もし仮にですよ、自分の母親が病気になって手術をするとなったとき、執刀してくれる病院のお医者さんが、「ふつうにがんばります」って態度だったら、ちょっと飲みこめないでしょう。いまはふつうにがんばるときじゃないだろってなりますよね。この本で何度もくり返しているように、お年寄りはただふつうにのんびりと暮らしているわけではないんです。自分はいまふつうじゃない状態にいるって感じているんです。自分の人生が終わりかかっているということが特別じゃなかったら、何が特別なんでしょう。 高齢者ケアって「ふつう」にやっちゃ絶対にダメですよ。 命を預かる以上、「ふつう以上」にやってふつうですよ。 いやいや、でも逆に、まじめで一生懸命で「賢い」人ほど、水準の高い「ふつう」を一生懸命に実践しています。 「今日は気温が低いです。散歩は無理です」 「転んだらいけないから立ち上がりのときは絶対にスタッフが介助すること」 「血糖値が上がるからこれは食べられません。一度食べると、次ガマンするのがつらいかもしれないから今後も与えません。話題とするのも禁止です」 「この方は症状がまだ軽いから、重い人を優先します。自分でできる方は自分でやっていただかないと。ガマンすることはガマンさせてください」 こんな発想になってしまいます。こういう人とケア方針を直接語り合ったことはありませんが、ひょっとしたら「施設ケアをしっかりと運営することがお年寄りに対する誠意」って考えているのかもしれません。 でももちろん、お年寄りはそんなことを求めてるんじゃないですよ。 そうじゃなければ困りますけど、自分の大事なことを犠牲にしてまでそれを求めてはいないんです。いまは人生の非常事態なんですから、もっともっと大事にしたいことがある。ふつうの時なら大事にすることでもいまはもっと大事なことがある。そう感じているんですよね。 「健康が第一」 「リスクを避けることが第一」 「安心と安全と整った生活が第一」 理屈ではそうですが、お年寄りは「いや待てよ。それぞれたしかに大事だけど、それを満たしていったら一体なにが楽しいんだろう……」って思います。「よし、じゃあこうしよう」と突破するアイデアが持てないことが老いることです。そして、その苦しみを分かってくれない人がその人の基準でふつうを押しつけてくる。これじゃ、おもしろくないし、悲しいし、嫌いになっても当然だと思うんですよね。 世代も違えば、状況も違う。 常識も違えば、大事なことも基準も違う。 それがお年寄りです。老いを持っていない人は、自分の「ふつう」の基準で老いた人を見るべきではありません。相手の特別な基準を受け入れない限り、どんな高齢者ケアも「ある意味のない」高齢者ケアだと思います。 高齢者ケアには拒否がつきものです。
49. お年寄りにかなうわけがないと思おう。それをケアの壁だとか、介護の壁だとか言います。 しかし、壁ってなんでしょう? ケアする本人からすると壁かもしれませんが、される本人からすれば「自分が望まないことをさせようとする人」がそもそもの壁ですよね。 私がケアスタッフ新人の頃の話です。 夜間のパッドの交換をどうしてもさせてくれない男性がいらっしゃいました。しかし、他の人に聞くと、特に問題なくさせてくれると言います。くわしく調べてみると、どうやら男性スタッフを中心にパッド交換をさせてもらえない傾向があるとが分かりました。 「◯◯さん……、パッド変えましょうか?」 「……いらない、いらない!」 発語が難しい方でしたから聞き取りにくい言葉でしたが必死に強く拒否します。表情までこわばらせて、「いい! いい!」とおっしゃいます。ようやく交換させていただけるのはいつも朝方、シーツもパジャマもぐっしょりになった頃でした。させてもらえるというか、眠りが深い時間帯だから拒否されないだけという感じでした。 自分が信頼してもらえない理由を探りましたがわかりません。いい関係を築こうと食事介助などを率先してしたり、帰りに部屋に寄っておしゃべりなどしましたが、いい関係にはなかなかなれませんでした。 そして、ある明け方のことです。 いつものように、すでにシーツはぐっしょり、パジャマも布団も全部交換が必要な状態です。私は声をかけて作業に取りかかろうとしましたが、その日に限って頑として介護を受け入れていただけませんでした。 「◯◯さん……。布団まで汚れてしまっていますから、いまさっと交換しますよ。◯◯さんは寝てて大丈夫ですから……」 できるだけゆっくり、穏やかに、こちらの焦りが伝わらないよう工夫しながら声をかけましたが、もう目はパッチリ開いているし、布団の端をしっかりと握りしめて離そうとしません。 濡れたパジャマはすでに冷たくなっています。さすがにほっとくわけにはいきません。 「申し訳ない、◯◯さん。これはさすがに換えないと。さっとやるんちょっとガマンしてて……」 偉そうなことをいろいろと言っている私ですが、私だって悩める高齢者ケアスタッフです。解決できなこともたくさんありますし、解決できないままやるしかないときだってあります。雰囲気は険悪でした。声をかけてもひと言も返ってこないし、目をしっかりつぶってやり過ごそうとしているようでした。ひと晩中、走り回ってケアをし終えても、そういうことがあった日は強烈な無力感しか残りません。そしてその後はなるべく相番さんに手伝ってもらいながら交換させてもらうようになりましたが、結局、関係が良くなることもないまま私はその職場を退職しました。 人間同士の相性ってありますから、本当にどうにもならないことはありますよ。自分でもそう思い込むようにしていたんです。 でも、その数年後のことです。 退職した後にも不定期にフロアに遊びにいっていたのですが、その方が以前よりもはっきりとお話しされるようになっていたんです。ほとんど会話らしい会話どころか、はっきりとした言葉を聞いたことがなかったその方が、私の顔を見て、指差して、たどたどしい口調でこうおっしゃんたんです。 「……いじめられた」 あのひと言……。 私はその場で涙が止まりませんでした。 ケアの壁を越えないことは難しいことです。 そうしてしまったほうが簡単だし、超えないことには解決しないこともたくさんあります。でも、そこを超えてしまうとケアしている本人もまた傷つきます。当の本人が望まなければ、ケアはそこで終わり。乗り越えないといけない壁なんてないんです。 お年寄りは誰だってすごいんです。
50. 苦しみの種類を分類しておこう。「高齢者」として生きているだけでも、なにしろ大変なことばっかりなんですから。 しっかり見ることができない。 言葉がうまく聞こえない。 指先もふるえてしまう。 立ち上がるのに時間がかかってしまう。 身体に痛い部分がある。 毎日飲まなくてはいけない薬がある。 心配な病気がある。 手も顔もしわくちゃになって悲しい。 気持ちは何も変わっていないのに、生活が変わり、環境が変わり、人の対応が変わり、世の中がまるで変わってしまう。それでも、前を向いてしっかりと生きる人が高齢者なんです。戦争を経験したとか、人生の荒波を乗り越えてきたとか、人生の大先輩だとか、いろいろな言葉でお年寄りを敬う理由を説明されますが、そもそもそんな説明はひとつもいらないんです。そんなことがあろうとなかろうと、お年寄りは無条件にすごいし、えらいんです。 すべてのお年寄りが毎日毎日経験していることを考えたら、私たちがそれにかなうわけがありません。 偉そうな口をきくこともできないのです。 すべて理屈抜きなんです。 お年寄りにはかなうわけがないんです。 脳機能の障害でコミュニケーションが不自由な方。
51. お年寄りはいつもくたびれている。認知症でコミュニケーションが不自由な方。 信頼関係ができていなくてコミュニケーションしていただけない方。 その方の「生きる力」「前を向く意欲」を失わせている理由がそれぞれ違いますから、気をつけるべきポイントも変わってきます。対応のしかたもかけるべき言葉の種類も変わってきます。 お年寄りを一緒くたにしていませんか? それぞれがどんな障害や不安や悲しみを抱えているのか。その強さはどうなのか。その日その日の症状はどこにポイントがあるのか。きちんと前もって分類して、整理して、その人の人となりもしっかりと想像した上て、いつも先回りしておいてください。 みんなを集めて声をかけるときや、一斉に何かをやろうとするとき。ついつい、その人の苦しみのポイントを意識し忘れてしまうことがあります。 「コンコン、◯◯さ〜ん、失礼しまーす! あらら、まだ寝てんですか〜。教室の富永ですが、本日も◯◯さんをたたき起しにまいりましたよ〜」 「あら〜、富永先生! 今日もやるの? 起きる、起きる〜!」 「はあい、では待ってますから! 二度寝しないでね! 今度寝てたらチューするからね! よろしく〜!」 無遠慮な声かけもいいところですが、おつき合いしているうちにそんなやりとりがふつうになった方で、おたがいにそんなやりとりをいつも楽しんでいるんです。その日もいつもの感じで声掛けして、いい感じで心のスイッチを押せたぞと思ったまでは良かったんですが、問題はそのやり取りを聞いていた隣のお部屋の方です。さも恐ろしいものを見るような目つきで遠くから私を見ているんです。その方はつい最近施設に入居されて、その日から私の教室に参加する予定になっていた方でした。 もちろんその方は教室には参加してくれず、私のことを信用してくれることはありませんでした。 けっして感覚勝負の高齢者ケアにならないようにと思っていますが、ついつい流れに乗って配慮し損なうことがあります。 耳が不自由な方をまじえて小一時間おしゃべりしたあとに別の場所に移って別の方と話しはじめると、「うるさいわねえ、聞こえてるわよ!」なんて怒られてしまったりするんです。地声を大きくしたまま忘れてしまっているんですね。 完全に配慮することは難しいことです。 お年寄りはさまざまですから。 にぎやかが好きな人もいれば、静かなのが好きな人もいる。いっしょに楽しむことがうれしい人もいれば、いっしょに悲しむことが必要な人もいる。同じ症状でも重く受けとる人もいるし、そうでもない人がいる。手に障害があっても、右手か左手かで心の具合はまるで違う。人によって違うし、その日の気分によって違うし、相手によっても違うし、朝と夜とでだって違うんですよね。 結局、常に反対の人がいるってことを意識しておくことです。 反対もあるからすべてをやらないで済ませることができれば簡単だけど、それでは何もうまれません。 お年寄りは若いころよりも体力が落ちています。
52. 高齢者ケアがうまくなるにはたくさんのお年寄りと会うしかない。何をやるしても強めにやらなくてはなりません。 目も耳もしっかりしていないから、ちょっとしたことも細心の注意を払わなくてはいけません。お年寄りの一日はのんびりしているように見えてかなりハードです。神経もくたくたにくたびれています。 お年寄りが良く眠るのはそのせいじゃないかと思うんです。毎日、体力や神経をフルパワーで使っているからこそぐっすりと眠ります。そんなお年寄りがまわりには心配かけまいと明るくふるまって元気よく笑っていることは、それだけで超人的なことだと思うんです。歳をとって生きるというのは、アスリート並な生活を送るってことに近いことなのかもしれない。 これもよく言われることですが、いつも見た目通りとは限らないのがお年寄りです。 元気そうに見えて、発熱していたり。 痛みがないように見えて、かなりの痛みを抱えていたり。 日頃のちょっとした違いを感じとるためにも日々の観察や変化に気づこうとする意識づけが大切ですよね。 でもそれは体調だけではなくて心も同じです。 たとえば、お年寄りがなにかに取り組んでいる姿は健気で胸が打たれます。懸命にがんばっている姿を見て、ついつい応援したくなります。手を叩いたり、きゃあきゃあ声援を送るのに悪気はないとしても、本人にしてみればもがいていて、苦しんでいるのかもしれませんよね。 お年寄りの見た目はいつも疑ってください。特に良さそうな見た目ほど、その反対の可能性をいつも感じていてください。 見た目より本当は体調が悪いかもしれない。 見た目より本当はくたびれいているかもしれない。 見た目より本当は悲しんでいるかもしれない。 自信を持ちすぎてはいけませんよね。結局、お年寄りの心を完全にフォローする高齢者ケアなんてありっこないんですからね。 高齢者ケアがうまくなるためには、「ひとりのお年寄りを深く知る」ことよりも「多くのお年寄りと長く知り合う」ことのほうが大事だと思います。
53. 1に手助け、2に自立。自立支援って、お年寄りにしてみれば怖い言葉ですよ。
54. 介護する方法よりも、介護する心を統一しよう。だってそもそも自立したくてもなかなかそれが難しいから高齢者ケアを受けているんです。なのに、「あなたのためだから」と言われて、自分ですることを勧められる。 これってなかなかの恐怖ですよ。 ええ〜!? じゃあ、誰に助けてもらえばいいのよ! って唖然とするだろうし、がっかりすると思うんです。 本人にしてみれば、高齢者ケアを受けるのはやむなくです。 できれば自分でしたいに決まっています。 人間なら誰だってそう思います。 (ああ、とうとうこういう世話を受けなくなってしまったか、残念だ……) そう思っているところに、 「できる限り、ご自分でやってくださいね。できることも頼るようになると身体が弱くなる一方ですから」 と告げられます。 これってお年寄りにしてみれば、 ……そのひとつひとつをやってやれないことはないんだけど、それが難しいからここに来たのに。 ……やろうという気持ちになれないのに。 ……強くなりたいなんて思っていないのに。 そんな気持ちかもしれません。 もちろん自立支援がいけないと言っているわけではありません。 自立支援は最高の手助けのひとつです。 なぜなら、本人が健康維持につながり、できる限り自分で自分のことをできるという喜びにつながり、誰かにやってもらうという心苦しさを避けることができますから。 「自分で生きる力」を少しでも維持していれば「将来のつらいこと」を避けることができます。 そのために自立支援はあります。 でも,本人には「目の前のつらいこと」のほうがつらいんです。 今は将来のことなんて関係ないんです。 今はここで助けが必要だと感じているんです。 高齢者ケアは、「将来のつらいこと」と「目の前のつらいこと」のどちらを優先して考えるべきか。 それは意見が分かれるところかもしれません。誰にも、正しい答えがわからないかもしれません。 でも、少なくとも、本人の気持ちがあってこその自立支援です。 自分でやろう、自分でやりたいという気持ちがない人に自立支援もへったくれもありません。そんなものは自立強制ですよね。自立支援のためになるべく放っておいて自立心を養おうなんてことを平気で言うケアマネさんもいますが、まったくの素人根性ですよね。ただの単細胞だし、考えが浅いです。 人生の残り1000日のうちの1日を生きているのかもしれない人なんです。 助けが必要ならば手伝う。 困っていそうなら気遣って声をかける。 それが基本です。 自立したいという特別な意思がある人には自立を支援してあげてください。 そんな意思がない人には、自立意識の必要性や得することを伝えてあげてください。どうしても自立支援をしたいのならば、その後の話です。 繰り返すようですが,高齢者ケアをする目的を言葉できちんと整理をしてください。 目の前のお年寄りにとって何が大切か。 何のために何をしているのか。 本人の思いよりもこちらの都合が優先するなんて1000%ありません。 高齢者ケアには正解がないってよく言われますが、私はそんなことはないと思っています。 そもそも、お年よりご本人が過ごしたいと望む今日一日をフォローしようとしていれば、すべて正解でいいんです。逆に、本人の意志そっちのけで自立支援上どうとか、ケアプラン上どうとか、こちらで勝手に計算して考えた理屈をゴールにしようとするから正解がわからなくなるんです。 どっちの理屈でも正解。だから、正解はない。なんて、そんなことをお年寄りは望んではいませんよ。そんなのは高齢者ケアのエゴです。 高齢者ケアが目標に立てるゴールはいつも仮のゴールです。 本当のゴールはいつも、いまのお年寄りの心の中にあります。 こちらの思い描くゴールも大事ですが、本人を目の前にして優先するべきこちらのゴールなんてあるわけがないのです。 高齢者ケアは人が人を助ける作業です。
55. コミュニケーションは高齢者半分、スタッフ半分。こう生きたいと思う人がいる。 こう生きてもらいたいと思う人がいる。 そんな人と人が出会って、加齢がじゃまするいろいろな要素をフォローします。 つまり、高齢者ケアは人の価値観が人の価値観を支える作業です。 でも、人間って多い。 現代はいろいろな人間がいます。 価値観も本当にそれぞれ。 認知症患者数が500万人に迫るような時代です。高齢者ケア従事者だって100万人以上とも、150万人以上ともいわれています。 いろいろな経験を持った全世代で高齢者ケアはなされています。 そうである以上、みんなが同じ価値観を持っているなんてふつうはありえないことだと思います。 介護士、家族、医療、療法士……。 さまざまの立場があって、それぞれゴールも違ってきます。 もちろんそれぞれの方法も変わってくるし、方法が持つ意味合いも変わってきます。高齢者ケアはチームケアなんですが、結局のところチーム内で生じてしまうズレって本当にキリがありません。だからこそマニュアルをしっかりして、方法を統一して……って現場ではなりがちですが、いくら表面的な方法を統一してもお年寄りは決して満足できません。完璧に方法を統一したとしても、お年寄りご本人には、そうされる理由がバラバラだということは分かっているからです。 自分の本心を分かってくれてこうやってくれている。 それが分かっていないけれど仕事だからやっている。 この違いは,お年寄りにとって大きな違いです。 なぜなら、一方は「自分が生きる価値観」を支えてくれていて、一方はそれとは関係なくただ支えているから。 そんなことまで望むことはできないと考えます。 でも、人間の心はそうは感じません。 自分の「生きる価値観」をないがしろにされることは堪え難くつらいんです。 大事なのは、「生きる価値観を懸命に支える」という価値観の統一です。その価値観があればご本人の安心のために方法は統一されるでしょう。いや、本当は、ケアする人によって方法が変わってくるほうが正しいはずですけどね。だって、ケアする人の能力が変われば方法だって手順だって変わるはずですから。 高齢者ケアで大事なことは方法の統一じゃないんです。 その価値観の統一です。 心の統一ってまずやらないといけないこと。 いちいち他人の高齢者ケアの方法を否定することもないんです。 方法はそれぞれ少しずつ違って当然なんです。 立場、役割、能力、人間性などの違いがある以上、それぞれが行き着く方法って変わってきますから、そこで意見を衝突させていてもしょうがない。なのに、介護スタッフ同士が自立支援するしないで意見衝突したり、医療スタッフが介護スタッフの価値観を受け入れなかったり、ケアマネが家族のことを陰で批判したり、そんなことが高齢者ケアの現場では日常茶飯事ですが、どれも意味のないぶつかりです。それぞれの立場で考えた、優しくて熱い思いがぶつかっているだけだったりするものです。 優しさ合戦をしても時間の無駄。 それぞれの立場での理屈合戦をしても時間の無駄。 あらゆる世代間で価値観合戦をしても時間の無駄です。 本人がいることを忘れないでください。 すべて答えは本人の中に。 残りの日々をジャッジするのは、それぞれの良心でもなく、それぞれの方法論でもなく、それぞれの生き方でもありません。 本人がどう生きたいのか。 そして、その心をどう支えたいのかということだけなんです。 高齢者ケアはコミュニケーションが大事です。
56. 認知症に理屈は毒。それは言うまでもないことです。 しかしそれは、情報を統一するためのコミュニケーションではなく、心の統一のためのコミュニケーションをしてください。 そして、コミュニケーションの相手は「高齢者」が半分、「スタッフ」が半分です。 高齢者が第一に変わりありませんが、スタッフ間で心の統一がなされていないと、いい高齢者ケアの雰囲気にはなりません。スタッフ間でラポールを築くことはかなり重要な仕事の一部です。高齢者ケアは「業務」ではなく「社会の役割」。そのような使命を果たすためには単純な情報伝達の積み重ねだけではなく心をしっかりとコミュニケーションさせることが大事な基盤になります。 認知症になると理屈は大敵です。
57. 認知症の心に積み木をしよう。理屈を飲みこむことが難しいだけではなく、理解できないという違和感が「不安」として感情に残ってしまうからです。 認知症患者の方は、投げ掛けられた「理屈」に反応するのではなく、自分の中に生じた「不安」に反応します。 それは口の中にいきなりなにかが飛び込んでくるようなものです。そんなことがあったら誰でも「うえっ! ぺっ! ぺっ!」と、強い拒否とともに吐き出しますよね。理屈は、認知症患者の方にとって正体不明の異物に他なりません。 急な否定。 お説教。 一方的な説得。 せっかちな言葉。 そういったことは混乱や強い拒絶を生んで当然なのです。 認知症の周辺症状を起こすすべての原因は「正体が分からない不快」から生じる不安や恐怖です。 理屈はアレルギー反応のような結果を引き起こすだけです。 認知症患者の方に理屈で説き伏せようとすることは逆効果どころか悪影響しか残しません。 では、どのように必要なコミュニケーションを取るべきか。 理屈ではなく雰囲気で話してください。 認知症患者の方には雰囲気で道筋をつくってさしあげることが重要です。 認知症になると思考は鈍くなります。
58. 認知症には鏡になろう。反対に、感情は鋭くなります。 感情は思考よりもはるかに早く、鮮やかに伝染します。 認知症患者の心には、目の前にいる人の表情がそのまま心に残ってしまいます。理屈抜きに、感情的な印象がどんどん刻み込まれます。笑顔も、悲しい顔も、そのまま積み木のように積まれていき、それがその方の心そのものになっていきます。 目の前の人がどんな表情か。 目の前の人がどんな雰囲気か。 目の前の人がどんな声や話し方か。 本人の意志とは関係なく、目の前の人の様子で認知症患者さんの心は決められていってしまいます。 しかしそれは認知症患者さんに残っている能力とも言えます。 それは「心」という能力をです。 その残された聖域をいい状態に保つために、いい気分を心に積み重ねていく「心づくり」こそが認知症ケアなのです。 暴言、暴力、徘徊、興奮……。
59. 認知症には顔で話し、声で話す。食べたことを忘れてしまう、盗まれたと思いんでしまう、自宅にいるのに家に帰ると言う……。 認知症ケアで困ることはその周辺症状ですが、さらに問題を大きくしてしまうのはその「心」です。 「なにっ!? そんなわけないだろう!」 「この野郎!? またそうやって騙そうとしやがって!」 良かれと思って対応していても、相手の心が思わぬ方向に進みはじめるとなかなかコントロールができなくなります。 対応する人が焦ったり、必死になればなるほど心はこじれます。 しかし、認知症の心は、理解してしまえば本当にわかりやすいものです。 快と不快のスイッッチがどこにあるのかを把握さえすれば、コントロールもしてあげやすくなります。 まず、スイッチを探しながら笑っていてください。 余裕たっぷりに頼りがいのある笑顔でいてください。 その笑顔がそのまま鏡みたいに写ってくれるのが認知症です。安心感たっぷりの笑顔でいて、あなたのことなんて別に見ていませんよ〜というような何気なさで対応してあげてください。 悲しい顔ももちろん見せないでください。 泣きたければ陰で泣いてください。 対応する人のネガティブな表情は不安として心に刻まれてしまいます。もし認知症の方の目の前で涙がこらえられなくなっても、がまんするか、もしくは笑いながら泣いてください。 認知症の方に対する、顔色と声色は十分に研究してください。
60. 認知症だからこそ自己紹介しよう。認知症の心は対応する人の「顔つき」で決まります。顔つきは言葉だと思ってください。「右」という顔をすれば、認知症の心は「右」を向きます。「左」という顔をすれば「左」に引っ張られます。 結論だけ言うと、使用する顔つきは「笑顔」しかありません。 「怒り顔」「心配顔」「悲しい顔」は、やるだけその顔つきを伝染させてしまうだけです。 にっこ〜りとしていてください。 私の人生にもあなたの人生にも、な〜んにも心配事がなくて良かったね〜、という顔をしていてください。 温かいしまりのない顔つきで、ゆっく〜り、おだやか〜に、満足げ〜な表情をしていると、口ぶりもそうなってきます。相手が興奮しても、包み込むような口ぶりをくり返せば認知症の興奮は徐々に和らぎます。 「ははは〜、だあ〜いじょうぶですよお〜」 まるで何ごともなかったかのような表情と声つきを続けることです。 そうやって認知症の心にある悪い感情をねじ伏せてあげてください。 認知症ケアは、相手の心の「不安、心配、恐怖、絶望」を取り除くためのアクションのくり返しです。 その表情や声は、もちろん本心ではなくていいんです。 本人の心をいい方向に向かわせて、いい状態を保つための責任をまっとうしてください。 認知症になると人の名前を覚えるのがとても難しくなります。
61. 散歩して少しくたびれよう。これを記銘力の低下といいます。 でも、だからといって礼儀やマナーまで忘れているわけではありません。はじめての人が来て、自己紹介もされず、相手のペースでいろいろなことをすすめられては、本人にとって混乱の元ですし、情けない思いをさせてしまいます。 認知症でもきちんと自己紹介することが基本。 相手の様子を確認しながら自分が何者であるかをいつも伝えましょう。 相手の表情が固いときやこわばっているときがあります。 そんなときは一度、やっていることを中断して、そばに座り、「あれ、調子が悪いですかあ? ○○(自分の名前)ですが、大丈夫ですかかあ? このまま○○を続けてもいいですかあ?」などと自分のことや自分がやっていることを伝えます。それによって表情が安心して、身体の緊張もほぐれることがあります。 そもそも、高齢者とは「名前」でつき合うことが基本です。名前でつき合えば社会人同士になるからです。 日頃から名前を呼び、自分の名前を告げてください。 社会人の心がある人は身体や脳の機能が老いても、存在までは老いません。自分の存在が老いぼれたと思ってしまっては老化は進む一方です。認知症は、しょんぼり感やがっかり感で進行します。逆に、社会人として扱われれば、その瞬間だけでも気持ちが社会に向いて、気持ちにハリがうまれます。社会人感がなくなると、自分がふわふわした存在に感じて、認知症のぶわーっとした不安を大きくしてしまいます。 「憂さ」は認知症の不快原因です。
62. 歌って少しくたびれよう。憂さはためないでください。 憂さは晴らしてあげてください。 一番いいのは散歩です。 20分以上の散歩をする。 20人以上の人とすれ違う。 ああ、私は世の中にいるのだな、という実感が心に安心感を定着させますし、身体がほぐれて、身体があたたまることで、心身ともにリラックスすることができます。 身体を動かす。 人と会う。 世の中に身を置く。 笑う。 話す。 これらは何気ないことのようですが、それがないことは「なんだか気持ちが悪い不都合なこと」です。 散歩することはさまざまな不快原因を解消するとてもいい方法でなのです。 「さあ、みんなで大きな声で歌いましょう〜!」
63. おしゃべりして少しくたびれよう。と前置きして歌うのも悪くはありません。 でも、もっと自然に歌う方法があります。 「は〜るの〜うら〜ら〜の〜……」 と急に歌いはじめるんです。 相手の目を見て穏やかな表情でこちらが歌えば、相手はすっと歌いはじめます。 知らず知らずに口が開き、心も開いてくれます。 そんな歌は心にいい風を吹かせてくれます。 歌の会はとても人気があるコンテンツですが、歌の会に積極的な人は比較的しっかり歌える人だと思います。 しかし、お年寄りの中にはゆっくりしか歌えない人もいます。 そういった人はそもそも発語もなかなか難しい人ですが、慣れ親しんだ童謡などは発声できるせっかくのチャンスです。なので、一対一でゆっくりと一緒に歌ったり、映像などを見ながら一緒に口ずさんだりすることで歌う機会をつくってあげてください。 体力的、機能的に、できることが限られてくるお年寄りにとって、「散歩、歌、おしゃべり」は重要です。
これほどシンプルな能力で、複雑な効果を期待できることはなかなかありません。 命を育み、体力を維持する重要な営みだと考えて重要視してください。 身体のエネルギーをほどよく消費すること。 新鮮な自然に触れ、心身ともに風通しを良くすること。 認知症状があればなおのこと重要視するべきです。 しかし、多くの高齢者にとって、散歩も歌も、若い頃と比べるとそこそこ負担のかかる作業です。おしゃべりに頭を使うことや、言葉を発声することだって、高齢者にとってはそれなりの運動です。 簡単なことなのになかなかうまくできないという葛藤や悔しさを感じる原因にもなります。 そこは観察力と想像力をうまく使い、その日の様子にフィットした内容をうまくセッティングしてあげてください。 |






