東京都内のある特別養護老人ホームで、私は季節を感じるための俳句遊びのような会をおこなっている。
会の最高齢だったのは、今年6月に101歳で亡くなった田丸ナカさんだ。98歳の時に初めて会に加わっていただき、100歳の誕生日には朗々たる歌声で黒田節まで聴かせていただいた。車いすでの暮らしのためめったに外出をしない田丸さんにとって、俳句を作って心を遊ばせることはうってつけの楽しみになった。
その田丸さんに今年、バレンタインデーのチョコレートを頂いた。そのお返しに私は、つぼみがたくさんついた盆栽の桜をさしあげた。
<桜花 開花待つより 散る早さ>
こんなすてきな俳句が返ってきた。俳句もうれしいが、100歳を超えた女性とバレンタインのやりとりができることはちょっぴり誇らしい気持ちもする。
「俳句を作るのは私の生きがい。先生と話すことで生きる力が湧いてくる」
会うたびに田丸さんはそうおっしゃってくれる。
俳句の会のつながりが、俳句よりも大事になり、さらには老いを生きる力にまでつながる。ありがたいことに、田丸さんのように言ってくださる方は多い。
私が心掛けていることは、できるだけ「対等な一人の人間」として相手の前に現れることだ。そういう私が相手だからこそ、そこにはお世話する、される関係ではない自然な対話が生まれ、自然な笑みがこぼれる。ご近所さん同士のような和やかな表情にもなり、人間じみた感情もじんわりと浮かんでくる。私の俳句の会やレクレーションが他とは少し違うとすれば、そんな場面が多いことではないかと思う。
老人ホームでの暮らしに限らず、高齢者のまわりには自分を世話してくれる人が多くなってしまう。それを「うれしい」と感じるより、「情けない」と感じてしまうのが人間の感情だ。だからこそ私は一人一人の名前を呼び、握手をし、友人同士のような何げない会話を一つでも多く重ねる。俳句やレクレーションより楽しくて価値があることを思い付けば、いつでもそちらを優先する。そもそも俳句やレクレーションは仮の看板に過ぎない。真の目的は生き生きとした自然な対話を持つことなのだ。
いつだったか私は、社会人としての対話をなくした時、心の老いは始まるということに気がついた。田丸さんのようなご立派な百寿者にはいつもそんなことを教えていただいている気がする。
定年を過ぎた年代の方々にも、ぜひ自然で何げない対話を社会の中で持ち続けることをお勧めしたい。それは心の若さをいつまでも保つ秘訣なのだと思う。(施設訪問型レクレーション「来てくれる教室」代表)