●6:30 一色ラジオ体操(8人+4人)
●7:30 木の下ラジオ体操(14人+6人)
●8:30 葉山美化かつどう(2人+20人)
●9:00 長柄会館まちピアノ(12人+8人)
◯10:00 中山さんの10分呼吸会
●13:00 風早橋まちピアノ(5人+15人)
◯14:00 English日本語chat Table
本日も80人ほどのみなさんと交流、声かけ、あいさつさせていただきました。
ありがとうございました。
↓ ↓ ↓ 今日は1時間早く葉山に到着。
ボンジュール前の除草、除泥スタートです。
朝5時です。
最高の朝です。
ガガガーーー。
ガガガーーー。
角スコップで縁石沿いの草を勢いよく掘り起こします。……いや、草が少しのっている泥をかいているだけなのかもしれません。
「どうしてそんなに早朝から葉山の泥かきをしているんですか?!」
今日何人かの人にそう聞かれました。
「だって、早く来ないと交通量が増えちゃうから。危ないじゃん」
ほんとそれだけと言えばそれだけなんですけどね。
でも、もちろんそう言っても誰も納得してくれません。
「そもそもなんで草むしりしてんのよ?わざわざ違う町から?朝3時に起きて?」
そんな疑問の声が、私には新鮮な発見です。
発端は、そう、一週間前にさかのぼります。
私はまずあの交差点の掃除を10分だけやってみたんです。先週の木の下ラジオ体操が始まる30分前です。
「7時半のラジオ体操まで時間もあるし、片付けがいのあるところを片付けよう、そのほうが喜ばれるし、目立つし。。。」
そしてほんの10分作業していると、私はハッと気がつきました。
「……あ、もっと早く来ればもっときれいになるや!!いいこと思いついた!」
その発見に私は喜びました。
大したことのないちょっとした工夫で、ものすごいうれしいことにつながると気づくことなど人生にそう滅多にありません。
そのアイデアに気がついて以来、私は今日まで一週間、あの一角を徹底的にきれいにすることが楽しみで楽しみでなかったんです。
気になっているところをどうにかしたい。
どうにかするいい方法をみつけたい。
それが見つかったから小躍りして実践した。
ってことなんです。
片付けたかったから、片付けた。
そうしたかったから、そうした。
ってことなんです。
本当にそれだけで。
……でも、それはなぜ?
ってなりますか?
笑
では、ここでもたぶん何度か書きましたが、何度でも書きましょう。
そもそものことを書いておきます。
そもそもは多分ふたつあります。
ひとつは、高齢者のためです。
(……こう書くと、「毎朝、散歩しているお年寄りが気持ちよく、安全に、清潔に、町の道を歩けるため?」と聞いてくださる方もいらっしゃいます。もちろん、お年寄りだけでなく、こどもだって、働くみなさんだって、葉山に遊びにくる人にだってそう思ってくれればいいですが、私のそもそもの物語はそこではありません。。。)
私は2011年から高齢者福祉施設に訪問しています。
私は、「この町で人生最後の時間を過ごすこと」のそばで、それが少しでも豊かになるための試みを、「施設への訪問」を通しておこなっています。
足りないことは何ですか?
私がそれを少しでも埋めることができますか?
私の活動はその繰り返しです。
圧倒的に足りないのは「ひとと高齢者のつながり」です。
私はそこで過ごしている高齢者のために、私自身が「世間の窓」となろうとしています。
高齢期に多くの人は、「社会からの距離があまりに遠くなったこと」に苦しみます。自分の価値がさがってしまったり、なくなってしまったかのような気持ちになってしまいます。そして、生きてることが以前ほど楽しくなくなる、つまらなくなる、意味がないように感じる。
私は、施設の中にいある高齢者が「社会とつながり直し」できるような入り口になりたいと思っています。
だから、「窓」です。
世間の風や、世間のできごとや、世間の言葉を、その窓から届けるために訪問をしています。
そして「町の窓」にもなろうと思っています。
私が「世間の窓」になるためには、その町の空気や風を知っていないといけませんから。だから、その窓の向こうにいる町の人とつながらなくてはと思っています。
そして、「町の風」を高齢者に届ける。
さらには、「高齢者の毎日の風」を町に届ける。
そういうことです。
つまり私は、施設と町をつなげる窓になりたくて、それが実現できそうなことならなんでも試したいと思っています。
それを一つでも実行すれば、そこにはかならずひとつ「窓」が開きます。
そうやって、こつこつと重ねていって、施設と町が近くなること。
施設の中での日々を外に人に伝えて、中の人の気持ちを町の人が知ること。
その結果、外の人が一回でも多く高齢者福祉施設を訪れてくれることにつながるに違いない、そんな思いがあります。
そしてもうひとつは、これから高齢者になる人のためです。
「この町で人生最後の時間を過ごすこと」について考えるべきなのは、この町に住んでいる人のはずです。なのに、この町の人は、この町のお年寄りが最後の時間をどう過ごしているのかをあまり知りません。知らなないまま、高齢者になってしまい、思ってもみなかった毎日に驚き、悲しみ、あわてます。
そもそも私は、人間って年齢に限らず大小さまざまな障害を持って生きていると思っています。
持病もそうです。
ケガの後遺症や古傷の痛みもそう。
癖や性分だって、実は、自分の人生を少しだけ生きにくくしていて、それは広い意味で「障害」だと思っています。
実はみんなみんな障害者なんです。
認知力だってみんなみんな下がりますし、みんなその程度の中で生きています。
体の障害。
脳の障害。
社会とのつながりの障害。
この3つの障害をもっているんです、生きている人はみんな、大なり小なり。
そんな人間に降りかかる障害が、高齢期にどっとヘビーに押し寄せます。
人間は人生の最後を障害を持って過ごします。
そんなことを私は知りませんでした。
体験がないから、客観的にも、主観的にも、想像すらもできていませんでした。
そして、体験があまりにないのは高齢期や障害期に直面してるご本人たちもそうだったんです。
多くの人が前もって地図を持っていません。
どう受け止めていいのか。
ただ歯を食いしばっているだけです。
そうじゃなくて、こんな人がいますよ。
そう考えるより、こんな考えの人がいましたよ。
前もって、こう考えておくといいみたいですよ。
いまの毎日を、ほんの少しこうするといいみたいですよ。
私は私が話して来た年間5000人から10000人ほどのみなさんの言葉や姿を、これから高齢者になる人に伝えたいと思っています。
私の言葉、私の行動、私のつながり、私の日々を通して、その地図を一人でも多くの人に渡さなくてはいけないと考えています。
「津波が来るぞ」
「逃げ道はここだよ」
「高台へはこう進めるよ」
と伝えたいんです。私は。
でも、もちろん私はすべての地図を持っているわけではありません。
みなさんよりもほんの少し、1年にのべ5000人以上のお年寄りと交流することを10年続けただけです。
この町の高齢期ってどんなパターンがあるのか。
福祉や医療の情報。
それも大事だけどもっと大事なのは心構え。
まいにちの意識。
他者や社会へのつながり方。
そして、本当に大切なことを知ち続けることや、自分の時間の費やし方を本当に知ること。
私は、毎週水曜日に葉山で何かをしています。
でも私は旗を掲げているだけです。
私にはそうすることしかできません。
私が説明しても、私が訴えても、結局は、ひとりひとりが体験しないことには、明日への地図は描くことができません。
でも、あの旗ってどんな意味なのかなあ?
そう思ってくれて、その旗を眺めることで、その人の中に自然と地図が描かれていくような、そんなことを願っています。
こたえになったかな。
その過程で、いろんな思いつきをやっているだけなんですね。
↓ ↓ ↓ この上の写真を見てください。
交差点の渡ったところの先のアオキの枝がかなり繁っています。
そこを少しだけきれいにかたづけました。
それほど違いがわからないけど、ゴミ袋でこれくらい。
運ぶのも大変な量を剪定したんですが、写真で見るとこんなものですね。
でもこの一角は、もともとやるつもりがなかった一角でした……。
「あんたんですか?ここきれいにしてるのは?」
そう声をかけられたんです。
その人は、確か先月、木の下会館の足湯のちらしを配ろうとしたけど、「いらない!」と無下に断ったおとうさんです。
杖で毎日歩いている、年の頃なら、80歳から90歳近くか。。
「あんたは町の人?なんでやってるの?」
「いえいえ、まあ時間があって、気になったんできれいにしましたよ」
「ああ、そう!」
「私は長柄でもすこしやってますけど、ここはいちばんすごいですよ。匂いとゴミと泥の量が」
「そう!?そんなに?」
「はい。歩いていても危ないし、不潔ですし、虫も動物もわきますからね。このまま放置するなんて異常だって、やるとわかるんですけどね。。。」
「そうそう。ここの枝が歩いていて危ないんだよ」
そんな話をしたんです。
それで、やる予定のなかった目の高さの枝もある程度きれいにしておきました。
私のやっていることって遠回りでしょうか?
私はまっすぐ一本道を歩いているだけなんですけどね。
「あんたはよくやってるね」
「きれいになってうれしいね」
「よくやってくれてありがとう」
そうやって誰かにほめられたいとか、何かの結果や成果を得たいとか、そういったことでは、きっとないんです。
私の目指している山の頂上にいくためには、
「この道を通るときっといいだろうな」
と思う道を通っているだけなんです。
私には届けたい風や空気があって、
「この水面に小さな石を投げ込めば、きっと輪が広がるだろうな」
そう思ったら小石を投げたいんです。
その結果が、見た目でわかること。
その結果を、言葉でうまく説明できること。
それができると私はホッとします。
もちろんそれができるとうれしいし、リアクションを人からもらえるとうれしいし、安心します。
でもそこがいちばんの目的でもないし、いちばんの優先事項でもない。
ってことですね。
それをしない限り、窓を開けただけでは風が通らないこともわかっているから、がんばって人に声をかけたり、このブログに詳細に言葉を残したり、なにかにつながる機会をたくさんつくっているんですけどね。
↓ ↓ ↓ そして、ちょっと残業したので長柄に少し遅れて着いて、時間が20分しかなかったので、前から気になっていた重要ポイントを攻略しに行きました。
長柄のクリエイトを渡ったところ。
というか、ローソンの前。
ここは交通量がとても多いんですが、雑草もすごい。
クロガネモチの木の枝も伸びています。
ここが危ないんです。
なぜなら、クリエイトからローソンやかつや方面にわたる人が多いから。
車も人の姿が見えませんし、人も車が来ていることに気付きにくいんです。
見通しが悪いと事故が起きるのか?
見通しがいいほうが、逆に、事故を誘発しやすいのか?
そんなことを迷いもしましたし、この数ヶ月どうしようかなあとたまに考えていましたが、やっぱり「整っていることにこしたことはない」と考え、時間が許す限り、枝と草を除去しました。
写真を見比べて見てください。
どっちのほうがより良いんでしょうか?
横断歩道が必要なんでしょうか?
私にはわかりませんが、私にとって大事なことは、さらに泥が残っていることです。
枝と草よりも、そっちのほうが大変ですし、そこを片付けると整いは断然長持ちします。
「泥もとる!」
が今回の葉山美化かつどうのとても大きなテーマです。
清潔で、安全で、長持ちして。
洗練されて、清々しくて、田舎臭くない。
そのためには「泥取り」が絶対に大事。。。
それは分かっているけど、今日は中山さんの呼吸会。
泥が残っている方が、ここを片付けた人とがいることに誰かが気がついてくれるかもしれません。
足早に片付けて、長柄会館に戻ります。。。。
やってるやってる。
ほんの少しだけ、みなさんに伝えました。
「中山さんの呼吸会ってどう役に立っていると思いますか?」
ってことについて。
・「老人ホームの90歳」と「自宅で暮らす90歳」の違いはどこだと思いますか?
・自宅だとやらないといけないことが多くて一日中体を動かしています。
・ホームだとやることがなさすぎて、いつも椅子に座って体をまるめています。
・人間の関節や筋を動かさないと、固まります。
・固まってしまうことでめぐりが低下して、動きや反応を鈍らせます
・それは、ケガのリスクを上げるだけでなく、毎日のハツラツとした気持ちを低下させます。
・月に2回、体のツボを押さえながら、体をさすり、筋を伸ばして、関節を刺激することはすばらしい財産になります。
・この習慣や意識づけが、本当に体が動きにくくなった時のあなたの行動を変えてくれるはずですから。
・人間は動かないといけません。
・人間は自分の体を意識しないといけません。
・この呼吸会は、呼吸や動きを通じて、そんな習慣や意識のきっかけをくれているんですよ。
そんなことを伝えました。
これからも伝え続けます。
そして、スクラブル。
わーくんが今日も来てくれて、すーさんも輪に加わってくれて、またここでも、新しい窓に風を通した気持ちです。
こちらは断捨離支援でいただいたプリンター。
翌日には別の人にチャリティとしてご購入いただきました。
午後もいろいろとドラマチックだったけど、時間切れのため今日はここまで。
午後の英語にくると、英語も勉強になって、いろんなおしゃべりもできて、たのしいですよ。
ここにはすべて書ききれません。。。