●6:30 一色ラジオ体操(6人+3人)
●7:30 木の下ラジオ体操(13人+10人)
●8:30 葉山美化かつどう(1人+10人)
●9:00 長柄会館まちピアノ「10分呼吸会」(16人+10人)
●13:00 風早橋まちピアノ(10人+10人)
◯14:00 English日本語chat Table
本日は90人ほどのみなさんと交流させていただきました。
交流とは、参加と声かけです。
冬でもない。
春でもない気がします。
早春ですらないあいまいな季節です。
花粉という名の季節があってもいいかもしれませんが、私自身は、声高にそう言いたくなるほど花粉の影響は受けていません。
でも、日々、いろんな影響をさまざまいただいています。
春の風みたいなもの。
あたってはいるけれど残っていかない。
強烈だけど目に見えず、言葉で説明もできない。
過ぎたら過ぎてしまってなくなる。
いまのうちに言葉にしなくてはと焦りますが、焦るばかりで。
みなさんとおしゃべりの中でいろいろと消化していってますが、びゅうっという風が吹いた感覚しか残っていなくて。。。
でも、その一部を今日も日記に残しておきましょう。。。
火曜日に1日かけてよしこさんのお宅の庭掃除。
そのゴミをゴミステーションに出すことから1日が始まります。
きれいになると元気になります。
よしこさんが喜ぶと私もうれしくなります。
5時半に玉蔵院に到着したので、今朝は森山神社の枯葉掃除をすこし。
散歩中のおくさまが、「何もお手伝いできなくてごめんなさい」と声をかけてくださる。「いえいえ、好きでやってるだけですからあ」と、そんな言葉と笑顔が反射的に口から出てきます。
あ、そうか。
僕はこれ、好きでやっているのか。
……いやいや!ちゃうちゃう!
たんに好きとかじゃなくて、いろいろと考えがあってやってるんです。
複雑に考えて経験を重ねてここに至っているんです。それはラジオ体操のためだったり、森山朝市さんへの感謝の気持ちだったり、地域のご高齢者のため、地域の一体化のため、これまで10年間地域の福祉を私なりに実践してきて、「こういう町の風景づくりが町の今日と未来をつくるぞ」って感覚的に感じているからやっているわけで。
そんなことを、バーっと私の脳みそが考えるんですが、それをいま言っても始まらないとも脳みそは言います。
いつものようにね。
「お近くの方なんですか?」
「いえいえ、私は横浜なんです。ラジオ体操をそこでやっているんで、ちょっと今日は時間があったもので」
「まあ、私は完全な地元の人間なのに、すみません。ありがとうございます……」
これもまた日常。
これまで私はこの町で、こんな話を何回してきたことでしょう。
特にここのところ、毎回のようにそんな話をします。
そして、毎回そこで終わって、何か次に生まれるのかというとなかなかその気配はない。
もどかしいような。
もう慣れちゃったような。
私も人間なんで、その瞬間は「これはなに?」って感触があるんです。
でもやっぱり、何か産まれることに越したことはないけど、産むかどうかは私が決めることではないし。
そもそも求めるべきではないんです、私は。
って考えに行き着きます。
経験の記憶が私にそう教えてくれて、私の中の私が、「だからまあ、大丈夫。ニコニコしとけ」って私ににっこり笑って言ってくれます。
ただ少しだけ願いを言うと、私は遠い未来に石を投げかけているとは思いたい。
こんな姿を見た子供が。
こんな活動にすれ違った大人が。
高齢期を迎えたり、町を離れようか迷ったり、地域の存在に助けられたり、自分の住む地域がチグハグでおもしろくないと感じたり。
人生につまづいたり、人に悲しんだり、仕事を愛せなかったり、運命を恨んだり。
こんなオプションも人生にはあるって。
自分向きの時間ばかりではなく、自分向きじゃない時間や1日があると、それは誰かが笑ってくれたり、助かったと思ってくれたり、それを見て自分自身の心が熱くなったりできるものです。
ボランティアとか。
税金分は行政がやれとか。
自分の時間に忙しくて人には構っていられないとか。
人とつなががりができたら、あとあと面倒だとか。
一銭にもならないことをやってなんになるの?どうしてそこまでやってくれるの?なんのためにそれをやってるの?この町と関係ないのに?とか。
そうですよね。
理屈にあいませんね。
何か筋道が通っていないように感じますね。
でも、私は自然なんです。
私は新鮮な旬の野菜を食べる。
私は体を動かして毎日働く。
私はくたびれたら無理して働かない。
私は困っている人があれば助ける。
私はみんなが役に立つことがあればやっておく。
私は他人のことや町のことは家族よりも優先にはしない。
それって全部自然なんです。
いや私に限らずに、人間は、少なくとも日本人は、そうやって何百年も生きてきたんだから、そんな当たり前な、人生の時間の使い方をすれば、少なくとも人生は整うし、人生は豊かに向かうし、毎日満たされてぐっすりと眠られるし。
結果的にいつも自然体でいられるし。
もちろんそうじゃないのがいけないわけじゃなくて、これだがすべてだと勧めているわけでもないし、最高の生き方でもなんでもなくて、ひとつのオプションであって、選択のひとつであって。
おしゃれとか、かしこいとか、お金持ちとか、お友達が多いとか、お友達はいないけど再生回数は多いとか、そんな基準が好きな人や熱中する時期があってもそれはいいんだけど、そうじゃない「自然と人のなかにとけこむ」生き方ってあるし、大切な場面があるし、世の中にあるといいものだし。。。
そんなことを思うわけです。
結局、「好き」ってことなんですよね。
家族やまわりの人もそ、なんとなくそんな私の姿をゆるやかに支持して理解してくれていることも大きいんだけど、でも、「好き」だし「楽しい」し、もうひとつ言っておくと「これはただしそうだぞ」って自信がある。
だからと言って、すべてうまくいっているわけではないですが。
いったりきたりしますが。
でもそんなことは当たり前だし、私が出来ることはできているし、おおむね順調だし。
去年のいま、一昨年のいま、コロナの前の自分、どれと比べても、ちゃんといまの自分に違いを見つけることができるし、ほんの少し誇りに思えるし。
とか、思うわけです。
町の掃除をしていると。
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