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自分の健康は自分で守ろう。
社会療法レクレーション「来てくれる教室」・ 一般社団法人「声をかける」代表理事 富永幸二郎のホームページ
富永のおと
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2022.4.6(水)更新
「この活動をなんでやってるんですか?」と聞かれた時の私の答え。

私はかれこれ10年間、あちこちで無料の集まりをつくっています。
今やっているまちピアノもそうだし、木の下会館の開放も、年間400回の老人ホームのレクレーションも参加する人はすべて無料です。

なんでやってるの?
どうやって成り立ってるの?
最後のゴールは何?

今日もまた何回かそんな質問を受けたり、私から説明したりしました。
これまでにも何度も何度も聞かれてきたし、答えてきたし、自分自身でも何度も振り返って考えました。

それは例えば、
「どうして落語会をやってくれるんですか?」
「それは楽しい場所をつくりたいからです!」
では、ありません。

「どうして地域のレクレーションをやってくれるんですか?」
「一人でも多くの人の笑顔が見たいから」
でも、ありません。

ではなぜなのか。
それを一言で言います。
この10年間の活動の中で、私は1000人と出会って、そして400人が亡くなっていったからなんです。
最後の時間に私は「私とその人」として時間を過ごしました。
ただのレクレーションで歌やおしゃべりで楽しい時間ではなく、「私とあなた」として一対一の時間をレクレーションの時間と同じ時間、いやそれ以上につくってきました。

老いて体が痛み、重く、多くのことが以前のようにはうまくいかない。
そして、社会から離れ、連絡もなく、連絡したい人もなく、存在が薄くなり、軽くなり、手応えがない毎日が続く。
そんな人に「私はあなたに会いにきたよ、また会いに来るよ、よろしく」と言いにいく。
そのつながりを続けることで、その人と人間らしい距離感がうまれ、友人のようになる。
すると一社会人として、挨拶し、表情を交わし、言葉を交わすようになる。
私の存在は微々たるもの。
それでも、社会の風をふうっと受けることがその人の精気を蘇らせる。
生き生きとした時間が生まれる。

そうすることができてよかった。
もっとそうすることができればよかった。
そう感じるから老人ホームに通い、そして、そういう人と老人ホームで出会うたびに、
「ここに来る前に出会っていたかった」
と思ったんです。
老いの前に、老いを学んだり、耳にしたり、自分の老いを見つめたり。
その準備をしたり、覚悟をしたり、受け入れることが少しでもできたかもしれない。
その機会がほとんどない人が体の急変やゆっくりとした変化の過程で老人ホームに来る。
「なんだこれは」
「どうすればいいんだ」
「自分の人生の最後はこれか」
とオロオロする。
認知機能が低下していたら、そのオロオロを感じはするが言葉でうまくまとめられない。
だから、さらにオロオロは強くなる。

老人ホームに来る前にしっかりと老いを学んで、自分ごととして受け止めていれば、
もっとその時間を後回しにできたはずだし、最後そこにきた時に、満足した時間を多く過ごせるはずだ。


それを目の当たりにしながら毎日を悲喜こもごもに交流してきました。
いっしょに歓喜したり、絶望したり。
自分一人で怒ったり、悔しんだり。
別れのない別れに呆然となってしまったり。
それを400人繰り返した結果が、私の今日の今なんです。












いわゆる高齢者施設や老人ホームがメインですが、個人宅や地域の中でもあります。
そこで老いを迎えた人が自分が初めて経験する「自分の老い」を受け止めきれず、
オロオロとして不安のまま、









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